皇室典範が改正される前後あたりから、ネット上でも女性天皇に関する記事が散見される。
保守ブロガーを自称する私としても、その流れに乗ってみようかなと思った次第。
まずは、超々基礎事項を以下に。
*日本史上の女性天皇は八名で、そのうち二人の女帝が重祚している。
この事実を表すために「八方十代 はちかたじゅうだい」もしくは「十代八方 じゅうだいはちかた」という表現がある。
*この八方の女性天皇はすべて男系である。
換言すると、父方に天皇の血が流れている女性が天皇として即位したのである。
従って、女系天皇は日本史上ひとりとして存在しない。
時折、「日本にはかつて女系天皇がいた」などと主張する人たちがいるようだが、ただ不勉強なだけである。
そういう迂闊な者たちは男系か女系か、男子か女子かで四通りの組み合わせがあり、日本史上の八方十代の女性天皇はすべて「男系女子」が女性天皇として即位した史実すら知らないのであろう。
常連の皆さんから「なにを今さら」という声が聞こえてきそう。
しかしながら、超マイナーな当ブログでも常連さん以外から、ごくたまにアクセスがあるようなので、蛇足を加えた。
では、八方十代の女帝を確認してみよう。
推古~皇極(斉明)~持統~元明~元正~孝謙(称徳)~明正~後桜町
念のためだが、「皇極(斉明)」という表記は皇極天皇が一度退位した後に、斉明天皇として重祚(=再即位)したことを意味している。
最初の女性天皇である推古帝から孝謙帝までが飛鳥・奈良時代に即位しており、明正天皇と後桜町天皇は江戸時代の女帝である。
では、推古天皇から基本情報を以下に記していく。
◎推古天皇(554~628年)
父は欽明天皇で、母は蘇我堅塩媛。
母親の堅塩媛は蘇我稲目の娘であるから、推古帝にとって稲目は外祖父である。
稲目の息子が蘇我馬子であるから、推古天皇と馬子の関係は姪と叔父にあたる。
推古天皇は日本初の女性天皇であり、東アジアにおいても最初の女帝である。
推古帝が即位して四か月後に厩戸王(=聖徳太子)が立太子して推古天皇を補佐することになった。
では、推古帝在位期間中(593~628年)の主な出来事を以下に。
*593年 厩戸王(聖徳太子)が政務に参加する
*603年 冠位十二階制定
*604年 十七条憲法制定
*607年 小野妹子を遣隋使として隋に派遣
*608年 隋から答礼使裴世清(はいせいせい)が来日、妹子を隋へ再派遣
*614年 犬上御田鋤らを隋に派遣
*618年 隋が滅亡し、唐建国
推古天皇の兄が用明天皇で、その用明帝と穴穂部皇女との間に生まれたのが厩戸王。
つまり、推古天皇と聖徳太子は叔母と甥の関係にあたる。
推古天皇即位の背景は、崇峻天皇暗殺後の政局混乱を避けるためのものだと説明されることが多い。
ただ、明治天皇の玄孫である竹田恒泰氏は、聖徳太子の非凡な能力を高評価した蘇我馬子が太子を皇位継承者に位置付けるために画策したものだと推測している。
その聖徳太子は推古天皇の次に即位するはずだったが、推古帝よりも先に薨去となった。
この「薨去 こうきょ」とは、皇族または三位以上の貴人が亡くなることを表す表現である。
◎皇極(こうぎょく)天皇(594~661年)=斉明(さいめい)天皇
父は茅渟(ちぬ)王で、この茅渟王は敏達(びだつ)天皇の孫であるから、皇極女帝も男系である。
皇極帝の夫は舒明(じょめい)天皇である。
舒明天皇が崩御すると、後継者を巡って争いがおこり、山背大兄王(=聖徳太子の息子)が即位する可能性が出てきた。
それを邪魔したのが蘇我蝦夷で、舒明天皇の皇后を立てて皇極天皇が誕生する。
こうして、皇極帝は日本史上二番目の女帝となった。
皇極~孝徳(男帝)~斉明(皇極重祚)の時代の史実を以下に挙げる。
*642年 皇極天皇即位
*643年 蘇我入鹿が山背大兄王(=厩戸王の息子)を攻め滅ぼす
*645年 乙巳の変(中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿父子を倒す)、初の年号を「大化」に定める
*646年 改新の詔を出す
*655年 斉明天皇即位(皇極の重祚)
*658年 阿倍比羅夫が蝦夷を討つ
*660年 百済滅亡
ここで、乙巳の変後に大王宮を飛鳥から難波へ移したことも基礎知識として押さえておきたい。
厩戸王の息子山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされたり、逆に乙巳の変で蘇我宗家が滅亡したり、時代は命がけの権力闘争の真っ只中である。
そして、日本史上の一大改革である大化の改新へとつながっていく。
皇極天皇は、乙巳の変の後、皇位から退き、皇極帝の弟である軽皇子が孝徳天皇として即位する。
自ら譲位した天皇としては、皇極天皇が初の例である。
日本で最初の元号「大化」を定めたのが孝徳天皇であり、646年には「改新の詔」を出し、律令国家建設を目指していく。
しかし、改革を進めていくなかで、孝徳天皇とその甥である中大兄皇子との間に溝が生まれ、皇子は多くの皇族を引き連れて飛鳥川辺行宮(あすかのかわべのかりみや)に移った。
その後、孝徳天皇は難波で崩御する。
そして、次に即位したのが斉明天皇、すなわち、かつての皇極天皇である。
繰り返しになるが、譲位した天皇が再び即位することを「重祚 ちょうそ」という。
重祚した天皇は、皇極女帝が日本で初めてであった。
従って、譲位と重祚の初例となった女帝として、皇極・斉明天皇を記憶しておくべきである。
また、蛇足ながら、中大兄皇子は舒明天皇と皇極天皇の皇子であり、後の天智天皇である。
少しばかり、説明がくどいか、、、
では、日本の女性天皇シリーズの第一回はこのあたりで締めとしたい。
常連さんもお気づきのように、今回は一切のおふざけなし。
本記事も最後まで読んでいただきありがとうございます。