庶民から権力者に成り上がった元祖は秀吉、、、じゃなくて道鏡でしょ!

大体の話、、、
信長、秀吉、家康の三人なんですよね、戦国武将人気ランキングのトップ3は。
そんでもって、秀吉といえば、庶民から最高権力者に成り上がった軌跡が人気の源泉。
よく、百姓身分からの立身出世と言われております。

しかし、実際のところ、秀吉の出自は結構謎だったりして、、、、
周知の通り、研究者によって様々な説があります。
いちいち紹介していたら、それだけでブログ記事がいくつも作成できるほど。

とりあえず、秀吉が低い身分から関白・太閤まで上昇したとの前提で、現代でも一般大衆レベルから天下取りした人物を「今太閤」などと呼んだりします。
その代表例が故田中角栄氏。
毀誉褒貶、相半ばする人物ではあります。

でもですね、下層レベルから権力の頂点に達した元祖は、秀吉ではありません。
そう、道鏡でございます。
ご存じ、奈良政界を震撼させた怪僧(?)にして、孝謙女帝の寵愛を受けたお方。

弓削道鏡という名前から、すぐ想像がつくように、弓を作った部民の出身。
今東光大僧正の解説を以下に。

⇒「弓削は弓削部(ゆげべ)といってね、物部(もののべ)の下につく部なんです。矢矧(やはぎ)部が矢を作るように、弓を作っていた使用人ですわな。その弓削部の末孫なんです。物部守屋がやっつけられて、みな蘇我氏の奴隷にされてひどいことになっていた。
そんな境遇から出て、こんなことではウダツがあがらんというんで、彼(=道鏡)は葛城山にとびこんでいったわけですよね」

蛇足ながら、蘇我馬子と厩戸王の連合軍が物部守屋を倒したのが、587年のことで、一方の道鏡が活躍するのは8世紀。
765年に太政大臣禅師に就任した道鏡は、翌766年には称徳天皇によって法王に任じられました。
太政大臣禅師とは正式な官位である「太政大臣」に準ずるものであり、法王とは当時の宗教界のトップという意味合いでしょう。

ここで、再度、今大僧正の解説を引用しましょう。

⇒「彼は葛城山中にこもって修行した。恐らく当時の雑密、つまり純粋の密教でなく密教渡来以前の密教で、この当時の道鏡は雑密の行者ではあっても学問のある学僧の部類に入らないと僕は思っていた。
ところが後に彼は東大寺から沢山の本を借り出しています。その目録が道鏡自筆で正倉院に残ってます。(中略)
それを見ると猛烈に勉強したことが解ります。それを見ると経典はもとより、薬草の本だの、いろんなものを読破していますね」

このように、優れた学僧としての道鏡の側面を指摘できるのは、博覧強記の今東光大僧正ならではのことでしょう。

さて、当ブログで何度も取り上げたように、8世紀の奈良政界は皇族と藤原氏のせめぎ合いにより、権力者が交替。
その中で、皇族でも貴族でもない道鏡だけが異彩を放っていますね。

*藤原不比等~長屋王~藤原四子~橘諸兄~藤原仲麻呂~ 道鏡 ~藤原百川・永手

上の権力者推移を見ると、道鏡だけが皇族でも貴族階級でもなく、一人浮いております。
奈良時代に庶民階級から一人の僧が権力の頂点にまで達した事実は、日本史上でも特異な現象でしょう。
秀吉は16世紀に関白・太閤になりましたが、これは応仁の乱あたりから頻発した「下剋上」事例の完成形のようなもの。

秀吉の場合は、多くの研究者・史家の調査・探求によって、その足跡がかなり詳細に把握されています。
しかし、道鏡の場合は生年も父母の名も不明。
高校生向けの日本史教科書には、「道鏡は孝謙天皇の病を治したことから信頼され、復位した称徳天皇の時代に法王に任じられた」程度の説明しかありません。

失脚後に、藤原氏にとって都合のわるい記録や資料は消されたでしょうし、逆に道鏡を貶める材料が捏造されたかもしれません。
孝謙(称徳)天皇が女帝であるために、男女関係云々を示唆する者もいますが、事実なのか、虚構なのか、その真相はわかりませんね。
今大僧正も著書『弓削道鏡』の中で、その辺のことを描写しておりますが、、、、

道鏡の権勢は女帝の後ろ盾ありきのことだから、称徳帝崩御の後には藤原百川らが台頭し、道鏡は下野国に追放されました。
それでも、下野薬師寺の別当職を任せられたのですから、流されたというよりも「左遷」という表現が適当かも。
なんといっても、下野薬師寺は当時の「日本三戒壇」の一つが置かれたほどの寺でございます。
残りの二つは、もちろん、奈良東大寺と筑前観世音寺に設置され、東大寺の戒壇といえば鑑真和上が日本で最初に築いたものとしてあまりにも有名。

道鏡に関しては、例の宇佐八幡神託事件がありますが、その件はまたの機会に。
今回は「庶民から権力者に成り上がった元祖は秀吉ではなく道鏡ですよ~」の巻でした。
常連の皆さん、最後まで読んでいただきありがとうございます。