NHK大河『豊臣兄弟!』9月27日放送回を、例によってNHKプラスで視聴。
秀長が大和の国を任され、郡山城を拠点に活躍し始める様子が描かれている。
この時、秀長は45歳か46歳、というのは資料によって生年が異なるからだ。
皆さんもご存じのように、秀長は長生きしていない。
天正19年(1591年)1月、数年来の闘病の末に亡くなった。
享年は51とも52ともいわれる。
秀長の罹病と早逝を藤原鎌足の祟りのせいだとする伝承もあるらしい。
一体、どういうこと?
多武峰(とうのみね 奈良県桜井市)は藤原鎌足像を祀っている。
厳密には、「大織冠(たいしょっかん)像」とするのが正しいようだ。
この「大織冠」とは、大化の改新で確立された冠位制における最高位で、後にも先にも授かったのはただ一人、藤原鎌足だけである。
従って、大織冠という言葉そのものが藤原鎌足その人を表すとのこと。
さすが、鎌足~、あなたはグレートなり!
Fujiwara no Kamatari is great!
たかだか、建国250年程度で大騒ぎする若造国家の「MAGA」なんぞ、ほんに薄っぺらいもの。
鎌足が活躍したのは7世紀のことだから、アメリカとかいう国は欠片どころか、種子すらも存在していない。
尊大極まる大陸の某国家など、自称漢民族三千年とか四千年の歴史とかハッタリをかましているが、その実情は王朝がコロコロ変わり、鮮卑やら女真やらモンゴルやらが統治した時代もソートー長かったりする。
あれ、話がズレてきたか、、、、、
元に戻すとしよう。
その多武峰に鎮座していた大織冠像を、大和に進出した秀長が郡山に遷座する。
秀長は郡山に大織冠像を迎えるために、それに相応しい手続きを踏んでいる。
郡山城の西に大織冠社や本坊以下、様々な施設を造営したうえで、天皇から遷座の綸旨を得てから、1588年4月に大織冠像を郡山に遷座した。
ここからが、大織冠の祟りか、、、
遷座の翌年(1589年)の4月に秀長は重病となる。
同年、12月にも体調を崩したため、豊臣一門が秀長の祈祷を指示している。
世間では「大織冠のたたりじゃ~」との噂が駆け巡ったという。
1590年になっても、病は治らず、本人や一門が春日大社に参籠したり参詣したりと平癒を願っている。
兄秀吉も弟のために、祈祷を要請する中、国内に「大織冠の祟り」という噂は広まる一方。
ついに、藁にもすがる気持ちからか、大織冠像を多武峰に帰座させて秀長の回復を期待することとなる。
1590年12月に大織冠は郡山から多武峰に還御したのだが、、、、
身内や関係者の願いもむなしく、翌1591年1月22日、秀長は帰らぬ人となった。
さてさて、豊臣秀長の病因・死因は本当に藤原鎌足の祟りであったのか?
常連の皆さま方はどのように感じましたか。
神仏の御利益や祟りについては、当ブログではなんとも言えません。
ただ、同時期の逸話を少し紹介して、常連の皆さんの判断にお任せします。
*秀長死去の直前、1591年1月4日に秀吉は奈良の「神鹿 しんろく」を六頭召し上げた。
この神鹿とは、神の使いとして、神社で飼う鹿のこと。
*実は、先年、信長も同様の行動をとった。
それから、ほどなくして本能寺の変が起こり、信長は業火の中に斃れる。
その時から、神鹿を奪う行為は「大不吉の事」と見なされていた。
*本能寺の変の前、信長の嫡男信忠が信濃の善行寺如来像を本国に持ち帰っている。
その後、信長・信忠親子は不慮の死をとげている。
*秀吉も、上記の如来像を京都に遷しており、後に祟りを恐れて死の直前に信濃に戻そうとするが、本人は病死した。
う~ん、なんとも。
ただ、おそらくは、16世紀の日本には神仏の加護や祟りを信じる人々が令和の日本よりは多かったであろう。
当時、秀長の死因を「大織冠の祟り」と考えた民衆は一定数いたはず。
ということで、今回は「秀長の早逝は鎌足の祟りのせい?」の巻でした。
本記事も、最後まで読んでいただきありがとうございます。
追記
大織冠の読みについては「たいしょっかん」を採用したが、他の参考資料によると「たいしょくかん」や「たいしょかん」の表記もある。
この件に関して詳しい方がおられましたら、ご教示ください。