最澄(日本天台宗開祖・伝教大師)は修行僧に何を求めたのか、、、

日本天台宗の開祖である最澄(767~822)は、諡号を「伝教大師」という。
近江に生まれた最澄は、南都(=奈良)で学んだ後に、山林で修行を重ねた。
804年には唐に渡り、天台山にて求法の日々を送る。

帰国後に、桓武天皇の庇護を受けて比叡山延暦寺を建立し、日本天台宗を確立した。
以上は、日本史を履修すれば必ず習うことだ。

今回は、最澄が延暦寺で修行する僧に何を求めたのかがテーマ。
最澄は天台宗の修行規定として、『山家学生式』を著した。
その内容を少し、紹介してみる。

*「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を、名づけて国宝となす。故に古人の言わく、径寸十枚、是れ国宝に非ず。照千一隅、此れ即ち国宝なりと。」

⇒国宝とはなんでしょうか。宝とは、仏道を求める心です。この道心を持つ人こそが国の宝です。ですから、故人は言いました「一寸の厚みのある宝玉が10枚あっても、それは国宝ではない。一隅を照らす人こそが、まさに国宝である」と。
(最澄の言う「古人」とは、斉の威王(?~前320年)のこと)

大体、上記のような現代語訳が紹介されていることが多い。
では、常連さんにはお馴染みの今東光大僧正がこの部分を語るとどうなるか、『毒舌仏教入門』から引用してみよう。

⇒「最澄さんが「古人の曰く」とおっしゃってるのは、司馬遷(しばせん)の『史記』に出てくるもので、斉(さい)の威王(いおう)が魏の恵王(けいおう)に答えた言葉ですが、その意味は、直径が一寸もある宝石を十個集めても国宝などとは言いがたく、社会の片隅にあって職分に忠実な人、その存在がまわりを明るくするような人こそが国家の宝だ、というわけです」

大僧正の解説だけでよかったような気がしてきた、ハハハ。

*「古哲また曰く、能く言ひて能く行うこと能わざるは、国の師なりと。能く行ひて能く言ふこと能わざるは、国の有なり。能く行ひ能く言ふは、国の宝なり」

この一節は、学問の力と実践力の面から、人を三つのタイプに捉えているところ。

⇒学業は優秀だが実践が伴なわない者=国の師=国師
⇒実践のみで学問が伴なわない者=国の有=国有
⇒学業に優れ、実践も伴う者=国の宝=国宝

この、国宝、国師、国有という一種のクラスわけに関して、今大僧正は以下のように語っている。

⇒「伝教大師は自分の弟子はできもいいし、かわいかったからA、B、Cクラスしかこしらえませんでしたが、あれはちょっと間違いで、もっと規定を開いておかないといけなかったんです。Cからもう一つ、せめて四番目のクラスはつくっておいてほしかったですわ。それはどういうクラスかというと、わたしのような人間のためのDクラス、、、どんなことにも役に立たないが、おのれだけでもときどき反省して、真人間になれよというやつ」

大僧正のこのコメントは、多くの聴衆に向かって行った説法で放った言葉だ。
旧漢文で二万巻の仏典を読破し、文学の世界では直木賞を受賞し、さらには参議院議員も務めた今東光という稀代の大人物は、なんと謙虚な方であることか。

もう少し、『山家学生式』から引用しよう。
「凡そ両業の学生、十二年、所修所学、業に従いて任用せん。能く行ひ能く言ふは、常に山中に住して、衆の首と為し、国の宝と為す。能く言ひて行うこと能わざるは、国の師と為し、能く行ひて言ふこと能わざるは、国の用と為す」

先ほどの引用部分と内容が重複するところもある。
注目すべきは、比叡山の僧として一人前になるためには、十二年の修学が必要だという規定。
厳しすぎる、、、

また、伝教大師が「国宝」だと認めた弟子は、比叡山に留まり、他の学生の指導にあたることになる。
では、国師や国有は何を求められていたのか。
今大僧正に解説を願おう。

⇒「国師と国有は国家の要請にもとづいて諸国に派遣され、官民の事業、あるいは福祉事業にあたらせようとした。要するに、人にいろいろ用いられて役に立つようになれ、とお教えになったわけです」

⇒「この伝教大師のいう国師・国有というのも、国の運命を憂え、民族の運命を導くところまで行かないと本当ではありません」

先述のように、本記事の今大僧正の言葉は『毒舌仏教入門』からの引用である。
興味が湧いた方は、ぜひ、手に取ってみてください。

今回の書き出しを、パソコンで入力し始めた時は、『山家学生式』の訓読と一般的な現代語訳のみを紹介するつもりであった。
しかし、話題が天台宗のことになると、やはり、今大僧正に登場していただかないことには気持ちが収まらない。
最初から、今東光師のコメントを主にした構成で開始しておけばよかったと後悔。

まあ、いつも、こんな感じの行き当たりばったり。
常連さんには、お馴染みの展開でございます。
ハハハ。

それでは、本記事はこのあたりで。