日本の女性天皇についての基礎知識 その2(持統天皇)

日本の女帝シリーズの第二弾です。
早速ですが、まずは八方十代の女性天皇を再確認してみましょう。

推古~皇極(斉明)~持統~元明~元正~孝謙(称徳)~明正~後桜町

今回は史上三人目となる持統天皇についての基本情報を押さえていきましょう。

◎ 持統天皇(645~703年)

父親は天智天皇ですから、言うまでもなく男系女子が女性天皇として即位したわけです。
くどいようですが、日本の皇統において女系天皇は存在しません。

持統天皇は天武天皇の皇后です。
天武天皇といえば、壬申の乱は避けては通れない話題ですから、簡単に確認しましょう。

*壬申(じんしん)の乱 672年

天智天皇が崩御した後、皇位継承をめぐる争いが起きました。
それが壬申の乱で大友皇子と大海人皇子との間の戦いです。

大友皇子は天智天皇の息子であり、一方の大海人皇子は天智天皇の弟にあたります。
要は、甥と叔父が皇位につくために争ったわけです。

この壬申の乱は、大海人皇子側の勝利となり、翌673年に大海人皇子は飛鳥浄御原(あすかきよみはら)宮で即位して天武天皇となるのです。

さて、油断すると混乱してしまうややこしさが、このあたりにはありまして、持統天皇の父は天智天皇で、大友皇子の父も天智天皇ですが、、、
実は、母親が違うんですよ、持統天皇と大友皇子とでは。

従って、持統天皇にとっての壬申の乱は、我が夫(=大海人皇子)と異母弟(=大友皇子)の仁義なき戦いというわけです。
では、今回のテーマは持統天皇の基本情報紹介ですから、以下に関連事項を少し。

*689年 飛鳥浄御原令の施行
*690年 庚寅年籍の作成
*694年 藤原京へ遷都

まず、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)とは、持統天皇が施行した令(=行政法・民法)のこと。
よく目にするのは、律と令がワンセットになった「大宝律令」とか「養老律令」ですが、飛鳥浄御原令は「律」の字がふくまれない「令」だけになっています。
これは、飛鳥浄御原令に関しては、律(=刑法)が完成しなかったと考えられるからです。

ちなみに、大宝律令は701年、養老律令は718年にそれぞれ制定されております。
施行は、前者が701年(令)と702年(律)で、後者は「律令」ワンセットで757年に行われました。

ここで、我国が律令を定めたことの意義を明治天皇の玄孫である竹田恒泰氏に解説していただきましょう。

⇒「日本が独自の律令を編纂したのは、支那の冊封を受けていないからである。冊封体制の中にある国は、宗主国の律令をそのまま使うのが常であり、自ら編纂する必要がない。
例えば、新羅は最後まで自前の律令を持たなかった。支那の支配下にあっては律令の編纂は不要、かつ不可能である。
独自の律令を持つことは、独立国の証といえる」

次に、庚寅(こういん)年籍についての説明は割愛させていただき、藤原京に話題を移しましょう。
この京は、発掘調査によると、5・3キロ四方の正方形型の都城であると推定されております。
となりますと、その規模は後の平城京を超えております。

藤原京の中心には藤原宮がおかれ、宮殿としては初めて瓦葺きが採用されました。
条坊制により整然と区画された京内には、人々の住居、市のほか、大官大寺(だいかんだいじ)や本薬師寺(ほんやくしじ)などが存在感を放っておりました。

また、藤原京内には大和三山が含まれており、古来、多くの歌に詠まれております。
三山とは、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)、香具山(かぐやま)でございます。

せっかくですから、ここで万葉集の持統天皇の歌をひとつ。
~ 春過ぎて夏来るらし白たへの衣ほしたる天の香具山 ~

では、藤原京とそれまでの宮とで、異なる点は何でしょうか。
従来は、天皇の代替わりごとに、宮を作っていましたが、藤原京は代々使用することを前提としていました。
事実、元明天皇(女帝)が平城京に遷都するまで、藤原京は三代の帝都として機能するのです。

最後に、これまでの再確認と今後登場する女性天皇の予告をかねて、以下に飛鳥・奈良期の天皇継承の流れを記します。

推古(女帝)~舒明~皇極(女帝)~孝徳~斉明(皇極重祚)~天智~弘文~天武~持統(女帝)~文武~元明(女帝)~元正(女帝)

継承順を書き出してみると、改めて飛鳥・奈良時代は、女帝が活躍した時代だと感じますね。
それでは、本記事はこのあたりで締めたいと思います。
次回は元明天皇の登場です。

常連の皆さん、最後まで読んでいただきありがとうございます。