家康~秀忠~家光の三人は誰でも知っている。
ところが、「徳川四代将軍は?」と訊かれて即答できる日本人は案外少ないのでは。
もちろん、徳川ファンなら朝飯前だろう。
*徳川四代将軍は誰ですか。以下の1~4から選んでください。
1 家宣 2 家継 3 家綱 4 家慶
磯貝老師と岡谷修行僧から「おいおい、常識中の常識だぞ!」との声が聞こえてきそう。
お二方の呆れた表情が目に浮かぶが、答え合わせは後ほど。
さて、このマイナーな四代将軍は、家光の跡を継いだ時、わずか11歳。
当然、将軍としては頼りない(?)ために、保科正之(ほしなまさゆき)などが補佐に付く。
この保科正之とは、言うまでもなく、家光の弟にして会津藩主。
四代将軍にとって、保科は叔父にあたる。
ガキ、おっと失礼、まだ11歳の四代目の将軍就任を正当化するためか、幕閣は儒教理念による教化や身分格式の重視、また儀礼の整備などを進めていく。
ホント、大変ですな、年少者の将軍継承を取り繕うのは。
なんか、まだ若い娘を公式の場にお披露目して後継者アピールに余念のない半島の某独裁国家を連想するのは当ブログだけか。
では、そろそろ、解答を。
徳川四代将軍とは徳川家綱である。
この家綱は家光の息子だから、家康⇒秀忠⇒家光⇒家綱としっかり血がつながっている。
三代家光の時代に徳川幕府の基盤固めが成功し、安定期に入っていたから、11歳の将軍が誕生したとも解釈できる。
しかし、家綱就任後、先代家光の死を待っていたのか、幕政に不満を持つ牢人を集めて幕府転覆を企てた人物がいる。
由井正雪その人である。
が、この乱は密告者の存在により、未然に防がれた。
大体の話が、初代家康から三代家光までのいわゆる「武断政治」で多くの大名が改易・減封された結果、各地で浪人が激増しまくり、という状況。
自分がまいた種だけれども、「ヤバイ!」と感じたのか、家綱の時代からソフト路線に転向。
素人の当ブログは常に思う。
改易や減封するかわりに、その藩を海外出兵させればよかったのにと。
家光という凡庸な三代目が鎖国体制を築いたせいで、16世紀末から17世紀初頭までは世界最強の軍事国家だった日本が幕末にはすっかり牙を抜かれてしまった。
大東亜戦争敗北の遠因は、徳川の鎖国政策にあり、と指摘する史家もいるくらいだ。
家光が鎖国したのは、キリスト教対策もあったのだろが、消極的すぎる。
なぜ、攻めるという発想を持てなかったのか。
武家諸法度に違反した大名に「改易が嫌なら、スペインの拠点・マニラを攻め滅ぼしてこい!」とか「ポルトガルの根拠地・マカオを切りとってこい!」などと発破をかけてやればよかったのだ。
こんなことを書くから「右翼」とか言われるんだな、ハハハ。
当ブログはあくまで保守でございます。
しかしながら、もし信長が長生きしていたら、おそらく海外進出していただろうと空想する時、徳川の「内向性」は残念でならない。
ん、なんだか、家綱の話からどんどん離れていくような、、、
話を戻すと、四代目の時代から武断政治から文治政治へと転換が図られていく。
大名改易の政策をやわらげるために、末期養子の禁止を緩和していく。
末期養子とは、子のない大名が死に際に急いで養子を迎えることだが、50歳より下の大名には認めるようになる。
主君の死に際して、家臣が殉死することを禁じたり、有力大名から幕府へ人質をだす戦国の遺風をなくしたりした。
この流れから、大名によっては藩内で学問を奨励したり、儒学思想にもとづいた領民統治を行うものもでてきた。
家綱の補佐役だった保科正之、岡山藩主の池田光政や水戸藩主の徳川光圀などである。
と、ここから、各藩の文教政策を挙げていくと、かなりの文字数を必要とするので、またの機会に。
今回は「徳川四代将軍はマイナーな家綱でした、って失礼だろ!」の巻。
常連の皆さん、最後まで読んでいただきありがとうございます。