タイトルは全く違うが、老師と修行僧の対談の第二弾である。
前回、久々に登場したためか、磯貝老師の機嫌も直ったようだ。
では、お二方に登場してもらおう。
岡谷修行僧:では、老師、早速だけど前回では触れなかった守護の権限拡大の件について、こちらから口火を切らせてもらうよ。
そもそもは、1185年に大犯三カ条(大番催促、謀反人・殺害人の逮捕)を守護の業務だと定めたのが、1232年には夜討・強盗・山賊などの逮捕権まで追加された。
1232年といえば、貞永式目(御成敗式目)制定の年で、当然、三つの新権限は貞永式目の中に記されているから。
磯貝老師:大犯三カ条も成文化されたのは貞永式目においてだったはず。
その意味では、貞永式目の意義は大きいよな。
頼朝以来の先例と道理(武家の慣習や道徳)を成文化したものだから、武士にとって納得のできるもので、後々の世まで、大きな影響を及ぼし続けた、、、って式目の話はここまで。
守護権限拡大についてだったな、テーマは。
岡:お次は、1310年の刈田狼藉(かりたろうぜき)の検断権かな、老師もご存じのように。
磯:俺を試しているな、岡谷修行僧。
刈田狼藉とは、要は他人の田畑の稲を刈り取る強盗行為のことで、その検断権とはこの稲泥棒を取り締まる権限のことだろ。
まあ、当時は所領の権利関係が複雑に入り組んでいた場合もあったから、面倒な紛争になる前に自分の土地だと主張する意味で刈田を行うことも多かったわけだ。
だから、すべての刈田行為が一概に犯罪だとは言えず、一種の自衛行動だとも見なされている一方で、強盗・犯罪と見なされる刈田を「刈田狼藉」と規定したんだよな。
こんなの常識だぞ。
岡:さすが、老師、失礼しました、ハハハ。
そんなわけで、権限が強くなれば守護の力も強くなって、肥え太っていくのは当然の話。
検断権があるということは、守護の胸先三寸で取り締まったり、見逃したり、身内や仲間うちで便宜をはかったりできるわけだ。
磯:その通り。
例えば、俺が守護だとしたら、青木部長の一族が狼藉をはたらいても見逃して、そのかわりに稲の何割かをキックバックしてもらうとか、生意気な荘園領主の田畑には配下の者を使って密かに苅田狼藉やらせたうえで、知らん顔しておくとかな。
岡:老師~、お主もワルじゃの~。
磯:あくまで仮定の話だから、本気にするなよ、な~んてな。
とにかく、そんなこんなで守護の勢力が徐々に増大していくわけだ。
幕府は弱体化、守護は強大化、さらには前回にも触れた「悪党」勢力の台頭ときて、鎌倉末期には北条得宗政治が制御できない領域・分野が増えてくるんだな、これが。
岡:もう、ここまでの話で室町幕府のひ弱体質をかなり説明できるな。
室町時代に入っても、悪党という新興勢力が幕府にとって難敵であること、勢力拡大した守護が幕府の指示に従わなくなることの二点だ。
老師に異存がなければ、さらに話を進めて欲しいんだが。
磯:修行僧の言う通りだ。
では、皇統の分裂に関してだが、周知のとおり、後嵯峨天皇の二人の皇子の間で皇統を巡る争いが起こる。
第二皇子の兄の方が先に後深草天皇、第三皇子の弟の方が次に亀山天皇として、それぞれ即位するわけで。
蛇足だが、後深草天皇系が持明院統で後の北朝、亀山天皇系が大覚寺統で後の南朝。
御深草帝が即位したのが1246年、亀山天皇即位が1259年のことだから、百数十年にわたって二つの朝廷勢力が並立したわけだ。
う~ん、なんだかな~。
岡:うん、後醍醐天皇が超メジャーだから、ついつい皇統分裂は1300年代のことかなとか思ってしまうけど、実際は承久の乱から二十数年後には火種が生まれていたんだな。
老師に確認したいんだが、鎌倉幕府が仲裁に入るというか、両統から交互に天皇を出すシステムを作ったんだよな。
磯:そう、例の「両統迭立」と言われてるものだな。
そして、鎌倉末期に、後醍醐天皇が華々しく(?)登場するわけだ。
岡:あの頃は、得宗専制体制だから、得宗家に権力が集中しているよな。
だから、権力の中枢からはずれていた御家人たちが不満たらたらだった。
執権北条貞時が、1311年に病死すると権力闘争が激しくなって執権と得宗の機能がうまくいかなくなる。
そういう幕府弱体化の中で、1318年に後醍醐天皇が即位すると、、、
では、老師、後醍醐帝の倒幕に関して簡単に解説をお願いしたい。
磯:後醍醐天皇の思想的バックボーンは朱子学の「大義名分論」だな。
幕府が皇位継承に介入してくるのが、とにかく気に障ったのだろう。
岡谷修行僧がさっき触れたように、得宗専制体制に反発する御家人層を味方につけたり、新興武士団である悪党を倒幕勢力に組み込んだりな。
悪党の代表格が楠木正成で後醍醐帝に忠誠を尽くすし、幕府から冷遇されていた新田義貞も陣営に参加するしな。
岡:やっぱり、あれだな、北条氏が平氏で新田と足利は源氏だから、一種の源平の争いと見ていいのかな、老師。
前回も出たけど、「源平交代説」は結構、説得力あるよな、専門家は俗説だと切り捨てるけど。
織田信長が平氏を自称していたのも、源氏の足利政権に対して「俺は平氏だから、源氏の足利を倒す」と対抗心を燃やしたんだろう。
磯:いきなり、話が信長に飛んだな。
時代を戻し、反幕府勢力についてもう少し解説すると、後醍醐側についた武士の多くは承久の乱(1221年)の際に後鳥羽上皇陣営に参加した者たちの子孫だったんだよ。
あと、後醍醐帝の皇子・護良親王の活躍で吉野・十津川あたりの武士も助勢するし、播磨の赤松円心も挙兵する。
岡:それに、護良親王は天台座主も務めたから、比叡山も後醍醐天皇を支援したんだよな、確か。
ん、延暦寺は親南朝だけど、一方の園城寺は動きはどうなんだ、老師。
磯:園城寺(三井寺)は北朝を支持したよ。
まあ、「山門寺門の争い」という表現もあるぐらいだから、延暦寺(山門派)と園城寺(寺門派)は長年にわたって犬猿の仲だったんだな、これが。
ちょっと焦点がズレてきたようだから、南北朝のアレコレは置いといて、足利政権を見ていきたいが、やはりキーマンは足利尊氏だな。
尊氏が後醍醐天皇討伐の命を受けて幕府から派遣されたのに、コロッと天皇に帰順して鎌倉側を裏切ったのに加えて、新田義貞が鎌倉に攻め込んで幕府が滅びる。
岡:それにしても足利尊氏は世渡り上手だよな。
もとは、北条高時から「高」をもらって「高氏」を名乗っていたのが、倒幕の功績から後醍醐天皇の諱(いみな)である「尊治」の「尊」を拝領して「尊氏」に改名したんだから。
そのくせ、1335年(建武2年)には「建武の新政」体制に反旗を翻しやがって、、、
磯:岡谷修行僧は後醍醐天皇ファンなんだな。
結局、尊氏の協力で後醍醐帝は天皇親政を目指すことができたし、その尊氏の造反で新政府はわずか3年で崩壊する。
尊氏は持明院統の光明天皇をたてて、1338年には征夷大将軍に任命された一方で、後醍醐天皇は吉野に移動して皇位の正統性を主張するから、ここから南北朝時代に入るわけだな。
岡:室町幕府脆弱性の三つ目の理由は、まさに皇統分裂にあると見なしていいよな、老師。
足利幕府にお墨付きを与えたのは、北朝だけだから権威も半減だよな。
磯:修行僧の指摘通りだ。
朝廷が二つあるわけだから、公家勢力も分裂するし、それぞれに武士団がつくし、さっきも出たように仏教界も分断された。
南朝の大黒柱、楠木正成が敗死した後も、北畠親房らが強力だったから東国や九州でしぶとく抗戦するしな。
岡:それにつけても、楠木正成を失ったのは大きいよな。
あの「湊川の戦い」なんて、正成らしさが発揮できない最悪の作戦ミスだよ。
正成は、いったん京都を足利軍に開放して入城させておいて、食料補給の道を断つ戦術を立てていたのに、天皇の側近の公家たちが「天皇が京を去るのはよろしくない」とか口出しして、正成の必勝策を退けたんだ。
ホント、ふざけているよな。
磯:つまり、文民統制の失敗例だ、典型的な。
楠木正成は負けるとわかっていて、湊川の戦いに臨んだんだ。
と、ここまで話が行ったり来たりしているな。
先ほど「南北朝のアレコレは置いといて」とか断っていたけど、、、
岡:やっぱり、内容が濃い時代だから、いろんな事に言及したくなるよ。
とりあえず、ここまでの話で、室町幕府のひ弱体質の原因を三つほど挙げたわけだ。
悪党勢力の台頭、守護の権限拡大、それと両統迭立による幕府権威の半減。
老師、こんな感じでよかったかな。
磯:うん、そんなところだろう。
まだまだ、追加したい情報もあるけど、今日はこの程度にしておかないか、岡谷修行僧。
そろそろ、俺の晩酌タイムだ。
岡:そうしよう、老師。
はなから、一回では語り尽くせないテーマだからな。
また、近々、機会をつくろうぜ。
追記
磯貝老師と岡谷修行僧は息ぴったりの名コンビだ。
話題があっちに行ったり、こっちに飛んだりするのもご愛敬。
その2をお楽しみに。