先日公開した『奈良時代、権力の座は皇族と藤原氏の持ち回り、、、』の第二弾。
タイトルはかなり違いますが気にしないでください、常連の皆さん。
第一弾では、藤原不比等⇒長屋王⇒藤原四兄弟⇒橘諸兄⇒藤原仲麻呂までを取り上げ、権力者が貴族⇒皇族⇒貴族⇒皇族⇒貴族の交互入れ替わりである事実を確認した。
今回は、藤原仲麻呂(恵美押勝)⇒道鏡⇒藤原百川という権力推移を見ていこう。
◎ 藤原仲麻呂(恵美押勝)*多少、記述が第一弾と重複します。
藤原仲麻呂は、不比等の孫で、父親は藤原武智麻呂であり、光明皇太后(=聖武天皇の后)は仲麻呂の叔母にあたる。
蛇足だが、光明皇太后は不比等の娘であるから、聖武天皇は不比等にとって娘婿となる。
皇室と藤原氏が濃密な血縁関係にあるため、このように重要人物が数珠つなぎ状態になるのだ。
藤原仲麻呂は、孝謙天皇(=聖武と光明皇太后の娘)の時代に光明皇太后を後ろ盾にして勢力を伸ばしていく。
これに対抗して、橘諸兄の子橘奈良麻呂が、757年に仲麻呂を排除しようとしたが、逆に捕らわれて獄死した。
孝謙女帝の退位後に、淳仁天皇が即位すると、仲麻呂の権勢はさらに増大する。
仲麻呂の息子の未亡人を、淳仁帝が即位前に后にしていたので、天皇と仲麻呂は元々親密な関係にあったからだ。
淳仁帝(=仲麻呂の義理の娘の再婚相手)の治世で、仲麻呂は正一位まで昇進し、思うがままに政治を操った。
仲麻呂は、淳仁天皇から「恵美押勝」の名を賜り権力の絶頂期を迎えると、官名を唐風に改称するなど唐を模倣した儒教的政策を進めていった。
その恵美押勝(仲麻呂)の権勢に陰りが見え始めるのは、強力な後見であった光明皇太后が崩御して後のこと。
◎ 道鏡
光明皇太后の後ろ楯を失った恵美押勝(仲麻呂)は次第に孤立し、その政治力が徐々に衰えていく。
そのころ、孝謙上皇が自分の看病にあたった道鏡という僧と親密な関係になると、その動きを警戒した恵美押勝は淳仁天皇を介して上皇を諫めようとした。
これに激怒した孝謙上皇は出家し、「小さいことは天皇が行うも、国家の大事と賞罰は上皇が行う」との詔を発し、国政の実権を掌握した。
女帝パワー、恐るべし!
危機感を募らせた仲麻呂(恵美押勝)は、天武天皇の孫の塩焼王を擁立する謀反を計画したが、この企ては察知され、上皇側の討伐兵に仲麻呂は捕らえられ、一族もろとも処刑された。
これが、764年の「恵美押勝の乱」である。
怒りが収まらなかったのか、孝謙上皇は淳仁天皇も廃位に追い込み、淡路に流す。
そして、764年に上皇は復位して、称徳天皇となる。
一連の権力闘争で一番利を得たのが、以前より称徳女帝から寵愛を受けていた道鏡である。
女帝の庇護のもと、道鏡は太政大臣禅師、さらに法王にまで昇りつめて、西大寺造営や百万塔制作などの仏教政策を行った。さて、日本史関連書籍には「称徳天皇が宇佐神宮の神託によって道鏡に皇位を譲ろうとした」との記述があるが、これは本当に史実だろうか?
まあ、シロートの独言はさておき、話を続けて行く。
この「宇佐八幡神託事件・769年」で、神託の真偽を確認するために和気清麻呂が宇佐に派遣されると、「我が国は開闢以来、君臣の別は定まっており、臣下が天皇に即位した例はない」との神託が新たに下された。
つまり、道鏡を皇位に付けてはならないとの内容である。
称徳女帝は、この宣託は和気清麻呂の捏造だと見なし、清麻呂を「穢麻呂 きたなまろ」に改名した後、大隅国に流罪とした。
しかしながら、女帝自身も道鏡には皇位を継承させないとの詔を出す。
称徳天皇との関係から、奈良政界に君臨した道鏡は、女帝崩御後に失脚し、白壁王(後の光仁天皇)の令旨により、下野薬師寺に左遷された。
道鏡排斥に動いた中心人物は、白壁王の信任の厚い藤原百川や藤原永手らだと伝わる。
◎ 藤原百川
道鏡を権力から追放した白壁王が即位して光仁天皇となると、藤原百川が政界の実力者となった。
もちろん、突然、登場したわけではなく藤原仲麻呂政権時代から中央で名を知られるようになり、称徳女帝の治世下でも重用されている。
百川は藤原宇合の息子であるから、不比等の孫である。
つくづく、藤原不比等の存在感がひと際大きい事実に気づく。
◎ 振り返って
再度、奈良時代の権力推移を確認する。
藤原不比等⇒長屋王⇒藤原四兄弟⇒橘諸兄⇒藤原仲麻呂(恵美押勝)⇒道鏡⇒藤原百川
*藤原不比等=藤原鎌足(中臣鎌足)の子
*長屋王=天武天皇の孫
*藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)=藤原不比等の四子
*橘諸兄=敏達天皇の後裔
*藤原仲麻呂=藤原武智麻呂の子=不比等の孫
*道鏡=僧
*藤原百川=藤原宇合の子=不比等の孫
ご覧の通り、道鏡だけが皇族でもなければ貴族でもない。
ホント、異彩を放っているな、道鏡は。
ということで、機会があれば道鏡に焦点を当てた記事を作成するもの一興かもしれない。