645年に初めて「年号」を定めた事実をど忘れしてた! おいおい、大丈夫か?!

先日、日本史の年表をぼんやり眺めていた。

527年=筑紫国造磐井の乱
538年=仏教公伝(?、一説には552年)
540年=大伴金村の失脚
562年=新羅、伽耶(加羅)を滅ぼす
587年=大臣の蘇我馬子、大連の物部守屋を滅ぼす
592年=馬子、崇峻天皇を暗殺

と、こんな感じの流れを見ていて、「あれ、元号は?」とふと思った数秒後に、「おいおい、大丈夫か?なんのための『大化の改新』だよ!」と自分で自分にツッコミを入れていた。
ホント、なにをトンチンカンな一人相撲をとっているのか、、、

いや~、情けない!
常連の皆さん、笑ってやってください、この大バカ者を。
すっかり、「大化の改新」の歴史的意義が頭の中から、スッポリと抜け落ちておりましたとさ!

やばいね~、日本初の元号が「大化」だと中学校で習って以来、脳ミソに定着していたはずだったのに。
さあ、気を取り直して、大化の改新について話を進めましょうか。

昭和のガキは、「645年に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿を倒した事件」=「大化の改新」と教わった。
時代は変わりました。
今では、この蘇我氏打倒の政変そのものは、「乙巳(いっし)の変」と名称変更。
あれ、これは以前にもブログネタにしたかな?

まあ、良しとしよう、って自分に甘いな。
では、令和のお子様にとって「大化の改新」とは何かというと、「乙巳の変」後に即位した孝徳天皇時代の諸改革の総称だと説明されている。
以下、具体的にみていこう。

◎ 大化の改新の骨格

*年号を「大化」と定め、大王宮を飛鳥から難波に移した。
*体制
皇太子=中大兄皇子
左大臣=阿部内麻呂(あべのうちのまろ)
右大臣=蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)⇐読みが面倒くさい!
内臣(うちつおみ)=中臣鎌足
国博士(くにのはかせ)=高向玄理(たかむこのげんり)・旻(みん⇐よく「僧旻」と書かれている人物)

*改新の詔(大化2年・646年)
⇒公地公民制
⇒中央(京・畿内)と地方(郡)の行政区画の設定 
⇒戸籍・計帳の作成、班田収受法の制定
⇒統一的な税制の確立

とまあ、以上の改革をまとめて「大化の改新」と規定している。
これほどの大改革を、いくら蘇我氏を滅ぼしたからといって、一朝一夕に達成できるはずもない。
実現には、数十年を要したし、当然ながら、改新後には朝廷内部で不和や分裂が続く。

孝徳天皇は、中大兄皇子にとっては叔父にあたるが、この二人の関係がギクシャクしだす。
中大兄皇子は、叔父の孝徳天皇を見捨てて、さっさと飛鳥に帰ったりなんかして。
孝徳天皇が難波の都で病死すると、天皇の子・有間皇子は、のちに皇位継承の争いの中で若くして命を落としてしまう。

孝徳天皇のあとは、斉明天皇の時代となるが、この斉明天皇は皇極天皇が重祚されたもの。
ちなみに、孝明天皇の先代が皇極天皇であるから、皇極⇒孝明⇒斉明(皇極重祚)という流れ。
日本史好きにとっては蛇足だが、皇極(=斉明)天皇は女帝である。

*斉明天皇の時代

658年=阿倍比羅夫、蝦夷を討つ
660年=百済の滅亡

斉明天皇の時代には、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が東北地方の日本海側へ遠征し、蝦夷を討ったと言われている。
ただ、この阿倍比羅夫は、桓武天皇時代の征夷大将軍坂上田村麻呂と比べると、それほど知られていないのでは。

朝鮮半島では、新羅が統一を進め、唐と結んで660年に百済を滅ぼした。
百済の豪族は、その後も新羅・唐に抵抗し、日本にも救援を求めてくる。
そこで、友好関係にあった百済のために、朝廷は半島に軍を派遣する。

となると、次に「白村江の戦い」の紹介となるのだが、今回は斉明天皇時代で止めておこう。
この戦いの前に、斉明天皇は崩御しているからだ。

今回は、大化の改新の意義を度忘れしていた大ポカから、記事を作成してはみたものの、なんか行き当たりばったり感が強いな。
磯貝老師から、お叱りを受けるかも、、、