江戸幕府は無理やり開国させられた。
しかも、アメリカ総領事ハリスという、稀代の悪党かつ詐欺師かつゴロツキの謀略によって。
もちろん、その背後には米や他の列強が誇る圧倒的な軍事力が睨みを利かせていたが。
1858年、大老井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得られないまま、日米修好通商条約調印を断行する。
この違勅調印が攘夷派の憤激を買い、井伊は1860年に桜田門外で水戸脱藩志士らに暗殺された。
先日アップした記事にも書いたように、この不平等条約締結の舞台裏には、米総領事ハリスの卑劣極まる策略が存在した。
第二次アヘン戦争の際に、清が英・仏と天津条約を結んだのを好機と見たハリスは、幕府をペテンにかける。
詐欺師ハリスは、「清との戦争に勝った勢いで、英仏の軍艦数十隻が日本に向かって迫りつつある」との虚偽情報を手紙で、時の老中首座堀田正睦に送る。
実は、1857年に堀田と会見した際には、ハリスは似たような大法螺を直に言葉で伝え、幕閣を威嚇していた。
なんとも、卑怯なやり口だ。
井伊直弼が条約調印に同意したのは、ハリスの書簡受理からわずか五日後のことである。
鎖国のツケは大きすぎた。
西欧列強の手練手管の前には、外交交渉のイロハも知らない幕府は赤子のようなものであった。
つくづく、鎖国政策に舵を切った三代将軍家光の無能ぶりに腹が立つ!
国防・外交の観点からすると、江戸時代とは、織豊時代から17世紀初頭までは世界最強国家であった日本を、二百数十年かけて弱体化させた時代である。
それでは、不平等条約改正への歩みを、対外戦争も絡めながら、ごく大雑把に見て行こう。
*1872年=岩倉具視⇒岩倉使節団で訪米中に、米との交渉に入るが、無理だと悟り断念する。
*1878年=寺島宗則⇒税権回復を目指し、米の同意を得るも、英や独などの反対で失敗した。
*1882~1887年=井上馨⇒法権・税権の一部回復を主眼に交渉したが、外国人判事の任用問題や欧化政策(鹿鳴館時代)への批判で挫折した。
*1888~1889年=大隈重信⇒個別交渉で米・独・露との間で改正に成功したが、外国人判事の大審院任用問題で世論の猛反発を受け、大隈は爆弾テロの標的となり重傷を負い、改正交渉は失敗に終わる。
*1891年=青木周蔵⇒法権回復を主に交渉し、英から同意を得るが、大津事件で挫折する。
大津事件とは、訪日中のロシア皇太子ニコライを日本人暴漢が襲い、負傷させたテロ事件である。
*1894年7月=陸奥宗光⇒「日英通商航海条約」調印(発効は1899年)で領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復に成功する。他の欧米諸国とも同様の改正案に調印。
これは、日清戦争開始の直前である。
◎1895年8月=日清戦争宣戦布告。
◎1896年4月=日清戦争に勝利し、清と下関条約を結ぶ。
*1899年=青木周蔵⇒1894年に調印した改正条約が発効。
◎1902年=日英同盟協約(=いわゆる日英同盟)の締結。
◎1904年=日露戦争宣戦布告。
◎1905年=日露戦争に勝利し、米の仲介によりポーツマス条約(日露講和条約)を締結。
*1911年=小村寿太郎⇒関税自主権を完全回復し、日本は条約上で列国と対等の地位を獲得する!
悪党ハリスの陰謀にはまり、不平等条約を押しつけられた1858年から、なんと半世紀以上を経て、ようやく明治44年(1911年)に対等条約を手にしたのだ、日本は。
明治の政治家は本当に偉大だ。
先日、高市首相の所信表明演説中に、品性の無いヤジを何度も飛ばした立憲民主党の議員がいるそうな。
平和な日本の現状に胡坐をかき、国民の血税から高給をもらいながら、やることは新総理をヤジることか、、、
ホント、呆れ果てた!
命を賭して不平等条約改正に心血を注いだ、明治の政治家たちが、この品格の欠片もない立憲民主議員の無様さを見たら、どう思うだろうか。
仮に、条約改正に失敗し、さらに日清・日露の戦争で日本が敗北していたら、令和の日本は存在しない。
どこぞの国の一部となり果てて、もしかしたら、日本語も日本文化も消滅させられていたかもしれない。
明治の政治家は凄い!
旧政権(幕府)の負の遺産(日米修好通商条約)を正々堂々と受け継ぎ、日本と日本国民のために、「粘り強く」交渉を継続し、ついには不平等条約を解消したのだ。
選挙に三回連続で敗北しても、総理の座に「粘り強く」しがみついた石破とは、格も器も違い過ぎる。
明治の政治家は大局観を持ち、その知力と胆力を武器にして、国益を最優先して奔走しながら難局に対処したのだ。
さて、令和の政治家はどうだろうか、、、、
本記事では、条約改正に至る流れをごく簡単に拾っていった。
また、機会があれば、もう少し詳しい情報とともに、個別に吟味するのもいいかもしれない。
追記
さんざん、米総領事ハリスを罵倒したが、本来、外交とは武力を用いない戦争であろう。
その意味では、「勝てば官軍負ければ賊軍」であり、騙された幕府が甘ちゃんだったのだ。
また、軍事力(同盟関係も含む)を背景としない外交が往々にして失敗するのも現実だ。
日本が日清戦争に踏み切ったのは、直前の日英通商航海条約調印により、イギリスが日本批判から日本の清出兵を容認する態度に転じたからだ。
イギリスを味方につけた日本は、情勢有利とみて戦争(=武力を用いる外交)を選択したのだ。
1911年(明治44年)に関税自主権を完全回復できたのも、1905年に日露戦争で勝利した事実がモノを言っている。
日本の国力・軍事力が西欧列強と同格と見なされたからこその、交渉成功である。
その日露戦争も、1902年締結の日英同盟という後ろ盾を頼みに、日本は開戦に踏み切ったのだ。
こんなことを書くと、また「右翼」とか「極右」とか言われそう、、、
ホント、日本は不思議な国だから、事実を事実として述べると、往々にして眉を顰められてしまう。