大好評につき日本史クイズ第四弾! 今回は鎌倉~南北朝あたりで、、、

ホント、有難いことに「日本史クイズ」が評判いいんですよね。
当ブログの常連さんは、知的好奇心旺盛な方々が多いですから。
というわけで、今回は第四弾です。

*以下の(   )内を答えてください。

1 承久の乱(1221年)のあと、朝廷側についた貴族や武士の所領を没収して、そこに新たに地頭を任命したが、その地頭を(   )地頭という。
2 執権政治が完成するのは、三代執権の北条(   )の代になってからである。
3 執権を補佐し、執権とともに幕府の政務文書に署名する役職を(   )という。
4 1225年には、三代執権によって有力御家人からなる(   )が設けられ、合議制による政治や裁判の運営が行われた。
5 1232年に制定された武家社会における最初の成文法を(   )という。
6 1274年の一度目の元の来襲を(   )という。
7 1281年の二度目の元の来襲を(   )という。
8 鎌倉幕府は、1293年に西国防備と九州統治の強化のために(   )を博多に設置した。

まずは、執権政治が軌道に乗ったあたりから、元の来襲ぐらいまでをクイズにしました。
難度は中程度(?)でしょうか。
では、答え合わせといきましょう。

1 新補(しんぽ)  2 泰時(やすとき)  3 連署(れんしょ)  4 評定衆(ひょうじょうしゅう)  5 御成敗式目(=貞永式目)  6 文永の役  7  弘安の役  8 鎮西探題(ちんぜいたんだい)

いかがでしたか。
1の新補地頭、3の連署、4の評定衆などは、ちょっと細かすぎましたかね~。
御成敗式目や元寇関連はすぐにピンと来たのではないでしょうか。

*以下の文章の(   )内を埋めてください。

第八十八代御嵯峨天皇の次の代で、朝廷は二つの勢力に分裂した。
後深草天皇系の持明院統と、亀山天皇系の大覚寺統である。
天皇親政を目指した、大覚寺統の後醍醐天皇は、正中(しょうちゅう)の変と( 1 )の変の二度にわたる倒幕計画を立てたが、発覚し失敗に終わった。
しかし、それをきっかけに、北条氏に反発する様々な勢力も立ち上がり、後醍醐天皇の皇子( 2 )親王や河内の武士( 3 )正成らが奮戦した。
幕府は反乱を鎮圧するために、足利高氏(尊氏)らを派遣したが、その高氏は後醍醐天皇側に寝返って、六波羅探題を攻め落とした。

関東の有力御家人( 4 )義貞は兵を率いて鎌倉に攻め入り、北条氏一族を滅ぼしたので、1333年、鎌倉幕府は滅亡した。
後醍醐天皇は摂政や関白を廃止し、天皇親政を理想とする新しい政治、いわゆる( 5 )の新政を行った。
しかし、新政府に参加した御家人の要求を満たすことができず、武士側は不満を募らせた。
結局、足利尊氏らが反旗をひるがえしたため、後醍醐天皇の政権はわずか三年で崩壊する。

尊氏は京都で持明院統の光明天皇をたて、( 6 )を定めて施政方針を示し、1338年には征夷大将軍に任命された。
一方の、後醍醐天皇は大和の吉野に逃れて皇位の正統性を主張したので、朝廷は吉野の( 7 )と京都の( 8 )とに分かれて対立することになった。

さてさて、鎌倉幕府滅亡前後の時代を見ていきましたが、、、
日本史好きの皆さんにとっては、易しかったと思います。
答を以下に。

1 元弘  2 護良  3 楠木  4 新田  5 建武  6 建武式目  7 南朝  8 北朝

別に、なんのひねりもない素直なクイズでした。
磯貝老師には物足りないかな。
お次の「◎✖」形式は、少し、難度を上げましょうか、、、

*以下の文章の正誤を、◎か✖で答えてください。

1 チンギス=ハンの息子であるフビライは、国号を元と改め、南宋を圧迫し、日本にも朝貢を要求してきた。
2 御成敗式目の制定後も、朝廷の支配下にはなお、律令の系統をひく公家法が効力をもっていた。
3 承久の乱の直前に『愚管抄』を著した慈円は、摂関家の出身である。
4 足利高氏は、執権北条高時から一字をもらって、「高氏」を名のっていた。
5 高氏が「尊氏」に改名したのは、光明天皇から名を与えられたからである。
6 後醍醐天皇の討幕運動の理論的なよりどころは、朱子学であった。
7 楠木正成は、河内・和泉を本拠とした、いわゆる「悪党」であったとされる。
8 楠木正成は、平氏の末裔だと自称していた。
9 南朝側についた新田義貞は、湊川の戦いで敗死した。
10 足利義満の時代になると、南北朝の争いもしだいにおさまり、義満が南朝と交渉して、南北朝の合体が実現した。  

皆さん、いかがでしたか。
レベルは難・易さまざまなものを選んだつもりですが。
それでは、以下に解答を。

1 ✖ フビライはチンギス=ハンの孫にあたる。
2 ◎
3 ◎ 慈円の父は摂政・関白の藤原忠通で、九条兼実は兄にあたる。
4 ◎
5 ✖ 尊氏の「尊」は、後醍醐天皇天皇の諱・尊治の「尊」を受けたもの。
6 ◎
7 ◎ ここでいう「悪党」とは、新興武士団のことである。
8 ✖ 正成は、自らを「橘氏」の末裔だと称していた。
9 ✖ 新田義貞は藤島の戦いで敗死。湊川の戦いで戦死したのは楠木正成。
10 ◎

ということで、今回は鎌倉から南北朝あたりで遊んでみました。
楽しんでいただけましたか。
それでは、常連の皆様、日本史クイズの第五弾をお楽しみに。