「鬼平」こと長谷川平蔵が活躍したころ ~ その前後にはどんな史実があるのか

なんだかんだで、その後もDVD『鬼平犯科帳』を購入し続けている。
やっぱり、中村吉右衛門の鬼平はイイですな。
数年前は、YouTubeで『鬼平シリーズ』が閲覧可能で、作品によっては何度も視聴したものもある。
もちろん、勝手にアップするのは違法行為で、そういう悪い連中のおかげで(?)タダ見していたわけだ。

さて、今回の記事は、実在の長谷川平蔵(1745~1795年)が活躍した時代の前後、日本ではどんなことが起きていたのかを少しだけ振り返ってみたい。
利便性を考慮して西暦を使わせていただく。

まず、長谷川平蔵が生まれる前は、八代将軍吉宗の時代だ。
1716年から45年まで将軍として、吉宗は例の「享保の改革」を主導する。
倹約による財政再建などがすぐに連想される吉宗の治世であるが、時代劇でお馴染みの大岡越前(大岡忠相)を登用したのも有名だ。

平蔵が若かりし頃の、徳川将軍は九代家重(在位、1745~60)で、次の十代家治(在位、1760~86)を補佐して一時代を築くのが、田沼意次である。
田沼が老中に就いたのが1772年で、翌73年に平蔵は「小普請組」に任じられた。
この小普請組とは「非役」と呼ばれる役なしの部署で、要は今でいう「窓際族」のようなもの。

暇を持て余した平蔵は、放蕩三昧の生活を送ったようで、「本所の銕」の異名で知られ、暴れ倒したり豪遊に興じたと伝えられる。
蛇足だが、「本所の銕」なる命名は池波正太郎の創作かと思っていたら、実際に資料上で確認できるそうだ。

*1772年⇒田沼意次、老中に
◎1773年⇒長谷川平蔵、小普請組入り
◎1774年⇒平蔵、西の丸御書院番に
◎1775年⇒平蔵、西の丸御進物番に
*1776年⇒アメリカ独立宣言

なんとなく、米国の独立宣言を差し込んでしまったが、つくづくアメリカとは若い国だ。
それは置いといて、「西の丸御書院番」とは将軍の世継ぎ(この場合、後の十一代将軍家斉)の警護役のことで、長谷川家先祖代々の役職であった。
次の「西の丸御進物番」とは、諸大名が贈答する進物を受け取り、納戸に納める役目だ。

大河『べらぼう』では、御進物番を務める長谷川平蔵を周りの者が羨むあまりに、平蔵の容姿端麗振りを揶揄う場面が描かれていて、興味深かった。
文化面について少し触れると、鈴木春信が錦絵を始めたのが1765年頃、杉田玄白と前野良沢の『解体新書』が世に出たのが1774年だとされる。

*1778年⇒ロシア船、蝦夷地厚岸に来航
*1782年⇒天明の大飢饉、各地で打ちこわし
*1783年⇒浅間山大噴火
*1785年⇒最上徳内ら蝦夷地を探査
*1786年⇒将軍家治死去、田沼意次失脚

ひと昔前は、「賄賂政治家」として悪名高かった田沼意次は、近年では評価が見直され、その経済政策を中心に人物像の再構築が行われているようだ。
民間の学問・文化・芸術が大いに栄えた溌溂とした時期であり、「雅」と「俗」のバランスがとれた一番水準が高い時代だと見なす研究者もいる。

それにしても、この頃からロシアが日本の周りをチョロチョロしだす。
工藤平助が『赤蝦夷風説考』を書いて、幕府に蝦夷地開拓を提唱したのが1783年頃である。
田沼と平蔵の関係は良好だったようで、平蔵が御進物番に出世したのも意次の引き立てであったらしい。
そして、田沼失脚後に長谷川平蔵が「鬼平」として華々しく登場する。

◎1787年⇒長谷川平蔵が火付盗賊改に任命される
*同年⇒松平定信が老中首座に就任

田沼が退場した後に、政治の実権を握るのが松平定信、八代吉宗の孫だ。
この定信が推し進めたのが「寛政の改革」で、一言でいうと吉宗の「享保の改革」を理想とした復古主義。
厳しい統制と倹約で田沼時代の華やかさを抹殺した唐変木というか、頑固者の青二才が松平定信だ。
って、ちょっと言いすぎか?!

◎1788年⇒平蔵、火盗改を解任されるも、半年後に再任される
*1789年⇒定信による棄捐令、旗本・御家人の負債免除
◎1790年⇒平蔵が「石川島人足寄場」を設置
*同年⇒定信による「寛政異学の禁」

火盗改に任じられた翌年に解任され、その半年後に再任された長谷川平蔵。
ドラマでは平蔵の他に適任者がいなかったから、火盗改に返り咲いたと描かれているが、どうやら定信に嫌われていたようだ。
田沼からは高く評価された平蔵だったが、堅物の定信は平蔵が銭相場で稼いだことを、武士にあるまじき卑しい行為だと考えていたフシがある。

しかしながら、平蔵は私利私欲のために金儲けをしたわけではなく、相場で得た利益を人足寄場(無宿人や犯罪者の更生施設)運営につぎ込んでいたのだ。
この時代の世界史に目を向けると、1789年はフランス革命の年でもある。

*1791年⇒山東京伝、手鎖の刑となる
*1792年⇒ラクスマン、根室に来航
*1793年⇒定信、老中を解任される
◎1795年⇒長谷川平蔵が火盗改長官を辞任し、その後、病没(享年50)
*1798年⇒近藤重蔵ら、千島探査
*1804年⇒レザノフが長崎に来航し、通商を要求

山東京伝が処罰されたのは、もちろん、定信の弾圧によるもの。
ホント、遊び心のない人物だ、吉宗の孫は。
ラクスマンやらレザノフやら、この時期からいよいよ外国勢が日本に通商を求めてやってくる。
そして、鎖国体制が動揺する時代に火付盗賊改長官を8年間務めた長谷川平蔵が死去する。

平蔵は、1795年の5月16日に火盗改の職を辞すると、わずか3日後に亡くなってしまう。
平蔵を疎んじた松平定信は、二年前の1793年に老中の地位を追われていた。
1800年代に入ると、西欧列強が次々と幕府を揺さぶりにかかる。

*1806年⇒ロシア船が樺太を襲撃
*1807年⇒ロシア船が千島を襲撃
*1808年⇒フェートン号事件
*1811年⇒ゴローウニン事件

フェートン号事件に関しては、かつて記事にしたことがある。
長崎出島のカピタンであるドゥーフを取りあげた時に、この英国軍艦の傍若無人ぶりを罵倒したと思う。
ゴローウニン事件については、またの機会に触れたい。

今回は、長谷川平蔵が生きた時代の前後から、史実を適当に拾ってみた。
すると、鬼平が盗賊を容赦なく取り締まっていた頃、フランスではあの「フランス革命」という狂気が吹き荒れ、その後の帝政期の戦争の犠牲者も含めると二百万人が命を落とした事実を改めて思い出した。

それはさておき、『鬼平犯科帳』は傑作だ。
今後も、吉右衛門が命を吹き込んだ「鬼平」を視聴する時間を大切にしたい。