迷信とわかっちゃいるけど、日本人にとって「お盆」は特別?!

ホント、ちょっと仏教のことを調べたら気づくことだ。
盆なんて、ただの迷信だということは。
わかってはいるんだけど、毎年、8月13日から15日の間に必ずお墓参りに行く自分の姿がある。

先祖供養の概念など、釈迦仏教には存在しない。
お釈迦様は、小さな王国の王子として生まれ、何不自由ない生活を送っていたが、覚りを求めて、家も家族も捨てた。
つまり、仏教の開祖である釈迦は、とんでもない親不孝者ということになる、支那儒教の立場から見ると。

仏教受容の際に、実在の釈迦の行動と「孝」の概念があまりにもかけ離れていることに、当時の支那人は困ってしまった。
そこで、親孝行の大切さを説いた、『盂蘭盆経』という偽経をでっちあげた。
ここでいう「偽経」とは、インドに原典が存在しないお経という意味である。

基本的には、漢訳経典には、その元になるパーリ語、もしくはサンスクリット語で書かれた原典がある。
繰り返しになるが、『盂蘭盆経』にはパーリ語またはサンスクリット語で綴られた原典が存在しない。
研究では、5世紀ごろに、支那で創作されたのであろうと考えられている。

仏教の教えと儒教を整合化させるために製作された、この作り話が日本のお盆行事のもととなっている。
まあ、なんと言いますか、、、

しかし、日本人にとって先祖を供養することは極めて当たり前というか、疑問を感じることもない自然(?)な行為だと思う。
それは「儒教の影響だ」と学者は言うかもしれないが、日本固有の「神道」にもいわゆる「祖霊信仰」が観察され、おそらくはその起源は縄文時代にまで遡るのではないだろうか。

要は、元々、祖先を大事にする日本人のメンタリティーに支那由来の『盂蘭盆経』がしっかりとマッチしたからこそ、お盆の風習が日本社会に深く定着したのであろう。

わざわざ、「お盆行事の背景には、『盂蘭盆経』という偽経の存在があって、、、」などと講釈を垂れるのも、大人げないのかもしれない。

今年も、父方の墓、母方の墓、それから寺の納骨堂など数か所に墓参。
祖父(父方)と父の墓前には、日本酒のワンカップを供えた。
二人で仲良く、飲んでもらいたいなと思いつつ、、、

母方の祖父も、相当な酒飲みで、職場からの帰り道には必ず、行きつけの酒屋で角打ち。
父方、母方の両方から左党の遺伝子を受け継ぐ私が飲み屋をはしごするのも先祖供養の一環でございます、って言い訳にするんじゃないよ!

父の弟二人(私の叔父)も酒飲みだし、母の兄(私の伯父)や弟三人(私の叔父)も呑み助だ。
伯父・叔父たちからは、本当によく飲ませてもらったし、可愛がってもらった。
うち数名は、すでに物故してしまったが。

お盆は、先祖や身内のことをいろいろと懐かしく、思い出してしまう。
去年か一昨年かの記事で、祖父の愛人だった女性の墓にも毎年、お参りしていることを記したと思う。
今年は、8月13日に顔を出してきた。

墓前で手を合わせて、心の中で「祖父が生前、大変お世話になりました」と簡単に挨拶する程度ではあるが、自分にとっては欠かすことのできない年中行事の一つである。
祖父には、もう数人の愛人がいたはずだが、残念なことに、その人たちがどこに眠っているのか知らない。
父に、しっかりと確認しておけばよかったと今になって後悔している。

それにしても、大昔の支那で、親不孝宗教の仏教をなんとか儒教と辻褄を合わせるために捏造された『盂蘭盆経』。
その偽経がもたらした思想や行動様式が、和風に変容されてはいるものの、今日でも日本社会に脈々と生き続けている。
なんとも、不思議で興味深いことだ。

少し調べれば、ただの迷信だとわかるのだが、そう口にすると、かえって野暮だと思われそうだ。
それほど、盆という習俗は日本人にとって特別な存在のようだ。

さて、常連の皆さんは、それぞれの「お盆」をどのように過ごしているのだろうか。