別に、古代史ファンではないから、邪馬台国にはさほどの関心はない。
ただ、好きな人はかなりいるし、ネットニュースにも関連記事が登場することがある。
先日、BOOKOFFで、最近の日本史教科書(正確には、教科書完全準拠の書き込み形式)を購入。
そこで、今回はその内容を少しばかり紹介したい。
◎「邪馬台国」か「邪馬台国連合」か
その教科書では、邪馬台国を単独のクニではなく、小国の「連合」として記述している。
二世紀の終わりに、倭国(⇐これも当該テキストから)では、大きな争乱が起こり、なかなか沈静化しなかった。
そこで、諸国が共同して邪馬台国の卑弥呼を女王として擁立すると、争いがおさまり、邪馬台国を中心とする29国ばかりの小国の連合が生まれた。
以上が、その教科書の説明。
記憶は定かではないが、高校の頃は邪馬台国は単独のクニとして説明を受けたような気がするが、、、、
しかも「29」という具体的な数字まで出して、「連合」であることを強調しているようだ。
数十年の間に、研究が進み、現時点では「邪馬台国連合」に落ち着いているのだろう。
*昔、教わった「日本最初の貨幣=和同開珎」も書き変えられている(これは、またの機会に、って出し惜しみか!)。
◎邪馬台国についての多少の説明もあり
1卑弥呼が、239年に魏に使者を送り、「親魏和王」の称号と金印を贈られた。
2卑弥呼は巫女として神意を聞き、呪術的な権威を背景に政治を行った。
3邪馬台国には大人(たいじん)と下戸(げこ)などの身分差があり、租税・刑罰の制度もあった。
4卑弥呼没後、男の王が後を継いだが国内が治まらず、卑弥呼の同族女性である壱与(いよ)が王になって、ようやく安定した。
上の1や2は、高校時代に習った。
3と4のような細かい説明が昔の教科書に記載されていたかどうか、、、憶えていない。
◎邪馬台国の所在地について
邪馬台国ファンにとって最大のテーマ・「邪馬台国の位置」については、「近畿説」と「九州説」の二つを挙げて、多少の解説もつけている。
*邪馬台国が近畿にあったとすると
⇒この場合、3世紀前半には大和(やまと)地方から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立していたことになる。
⇒その連合が、後の「ヤマト政権」につながる。(*昔の教科書では、「大和朝廷」が使われていた)
*邪馬台国が九州にあったとすると
⇒その邪馬台国連合は、九州北部を中心とする小規模のもので、「ヤマト政権」はそれとは別に東方で成立したと考えられる。
この二つの政権が、別々に近畿と九州で始まったと考えると
⇒近畿を中心とした「ヤマト政権」が九州の邪馬台国連合を統合して一つにまとまったと推測する立場と
⇒九州の邪馬台国連合が東遷して、近畿で「ヤマト政権」を形成したと推定する立場に別れる。
ブログ主が高校で習った日本史には、邪馬台国に関して、ここまで細かい記述は無かったようだが、、、
当方の記憶違いかもしれない。
◎最近の発掘調査・研究が教科書の内容を変えた
1970年代から、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡の発掘調査が進んだ。
この遺跡は3~4世紀ごろのもので、100ヘクタールにおよぶ大集落であることが明らかになった。
ちなみに、卑弥呼が魏に使いを送ったのは、239年であるとされる。
平成21年には、この纏向遺跡内で、整然と配置された3世紀前半の大型建造物が発見された。
これが、のちのヤマト政権の王宮につながるのではと注目されているという。
◎おわりに
何の気なしに、ブックオフで購入した日本史教科書。
歴史一般には関心があるので、暇つぶしに重宝している。
また、近々、これをネタ元にして記事を作成してみよう。
磯貝老師から、「手抜き!」と𠮟られそうだが、、、、
ただ、今回の内容は、ある出版社の日本史教科書の記述のみを参考にしていることは、再度強調しておきたい。
邪馬台国はもちろん、日本史の各時代・事項・人物像に関しては、様々な学者・研究者がそれぞれ独自の解釈を行う。
とまあ、上の二文は蛇足すぎたか、、、