それにしても、石破80年談話は薄っぺらくて拍子抜けした。
あの程度のものを発出することに意地になっていたとは、なんともご苦労様というか、一人相撲が好きなのだろうか、、、
気が済んだのならば、早く退いていただきたい。
前回の批判記事でも書いた。
石破が見落としているのは、令和の日本人と明治から戦前までの日本人とでは、戦争観に大きな違いがあるという事実。
戦後80年間、戦争を知らない我々と、内戦も対外戦争も経験した幕末・明治から戦前の日本人とでは、その感性・感覚は大きく異なる。
1945年(昭和20年)から八十数年前、つまり幕末から、ざっと主な内戦・対外戦争を振り返ってみると
*1863年=薩英戦争(対外)、下関戦争(対外)
*1864年=長州征討(内戦)
*1868年=戊辰戦争(~69年 内戦)
*1874年=佐賀の乱(内戦)、台湾出兵(対外)
*1876年=敬神党の乱、秋月の乱、萩の乱(すべて内戦)
*1877年=西南戦争(内戦)
幕末から明治10年までの短期間に、上記の紛争・戦争を当時の日本人は経験したのだ、直接的に、または間接的に。
自身が従軍して負傷した人々、身内や知り合いが戦死した者も多い。
つまり、令和の日本とは比べ物にならないほど、争いや暴力の匂いが日常生活の中に漂っていたといえる。
戦闘・戦争に参加したのは、武士や政府軍だけではない。
庶民もいざとなれば、実力行使に出たのだ、一揆という形で。
明治初期には、様々な一揆が起った。
県政に反対する一揆、廃藩置県に異を唱える一揆、外国人排斥を要求する一揆、解放令反対一揆、護法一揆(廃仏毀釈に反対する一揆)、キリスト教排除を要求する一揆、徴兵令反対一揆、地租改正反対一揆などなどである。
歴史の教科書では、徴兵令に対する一揆を「血税一揆」とか「血税騒動」と記述することが多いようだ。
これらの一揆や騒動では、参加者が竹槍等で武装したうえで、政府関係施設や住宅、豪農の屋敷などを襲撃することが頻発した。
家屋損壊、建造物破壊などの被害はもちろん、多くの死傷者が出ている。
明治6年の筑前竹槍一揆には約10万人が参加したとされている。
明治政府は、武力をもってこの一揆を鎮圧し、首謀者数名を処刑、罰金刑などを合わせると数万人を処罰したという。
つまり、幕末から明治の日本人には武断的な一面があり、いざとなったら実力行使をいとわなかった。
一部を除き、現在の日本人は温厚な人が多く、あの時代の民衆は別の民族ではないかと思えるほどだ。
当ブログは、紛争や戦争を美化しているわけではないし、暴力の是非を論じたいわけでもない。
ただ単に、幕末・明治以降、日本と日本人が戦いに明け暮れたという事実を提示しているだけだ。
日本人の旺盛なエネルギーは朝鮮半島に向かい(これは、国防の観点から見る必要があるが、ここでは割愛)、やがては、明治27年(1894年)に清と衝突し、日清戦争の火ぶたが切っておとされる。
日本の勝利に終わったこの対外戦争が、日本人の意識を変え、その後の内政・外交に大きな影響を与えたことは、言うまでもない。
続いて、明治37年(1904年)には日露戦争が始まる。
国力を振り絞った結果、ギリギリの所で日本は勝利を得て、アメリカの仲介により、日露講和条約(ポーツマス条約)を結ぶ。
ところが、この条約内容に多くの日本人が不満を爆発させ、「戦争継続!」「講和条約反対!」を声高に主張した。
多数の群衆が蜂起して、政府高官邸、交番・警察署を襲い、暴れまくったのである。
攻撃の矛先は、講和を支持した政府系新聞社やキリスト教会にも向かった。
政府は戒厳令を出し、軍隊を出動させて、この大暴動を鎮圧した。
令和の日本人には考えられないだろうが、この時に戦争続行を望んだのは、政府ではなく国民自身だった。
多くの国民が「ロシアとの戦争を続けろ!」と叫んだのだ。
この事実や当時の国民感情を抜きにして、その後の日本の外交や対外戦争を語ってはならないし、また理解することも不可能だ。
第一次世界大戦参戦(1914年)、山東出兵(1927年)、満州事変(1931年)、盧溝橋事件からの日支軍事衝突(1937年)、、、、以上はすべてが幕末から一本の線でつながっているようなものだ。
左派やリベラルのように、満州事変を起点として「十五年戦争」などと名付けることに、なんの意味があるというのか。
大河の全貌を把握するためには、下流付近を眺めるだけでは不十分だ。
その源流にまで遡ってから、周囲を念入りに観察しながら河をゆっくりと下っていき、様々な地点を調査する必要がある。
石破や彼の談話を評価する人たちに欠けているのは、歴史を大局的にとらえる視点である。
幕末の攘夷運動に始まり、明治の内戦・対外戦争から最終的に大東亜戦争に至るまでの背景には、日本人の猛烈なエネルギーがマグマのように蓄積していたのだ。
そのマグマの正体とは、ごく簡単に言うと「日本は断じて、白人国家の植民地にはならない!」という決意だ。
幕末の攘夷運動とは、反植民地化闘争に他ならない。
もし、幕末から明治にかけて国家の舵取りを間違えていたら、日本は西欧列強の植民地にされていただろう。
もし、日清戦争に敗れていたら、富国強兵策は頓挫し、外国の侵略を受けていたかもしれない。
清から得た賠償金(=当時の日本国家予算の約4倍)があったからこそ、、、、
少し、話がそれてきた感じなので、石破演説批判に戻る。
石破よ、「ロンドン軍縮条約」に言及するのなら、なぜ当時の国民がこの軍縮を「屈辱的不平等条約」だと感じ、締結に猛反対した事実に触れないのか。
日本が国際連盟の常任理事国だったことを紹介しておきながら、日本が人種差別撤廃を求めて国際連盟に働きかけた事実を、なぜ指摘しないのか。
国際連盟が人種差別を肯定したことに、当時の日本国民が激怒し、白人国家に敵愾心を燃やした事実に、なぜ石破は言及しないのか。
そろそろ、締めよう。
石破談話に欠けているのは、大局的な歴史観であり、また当時の国民感情・世論が政治に与える影響力が全く考慮されていない。
石破のいう「国内の政治システム」の意思決定には、当然、民衆の意思・願望・主張が、ある程度反映されているはずだ。
それとも、石破は、幕末・明治・大正・昭和(戦前)の為政者たちが、民意・民心を完全に無視して政策を実施していたとでも考えているのか?
これ以上続けると、話が終わらなくなるので、石破談話批判は三回目も準備しよう。
とにかく、今回の80年談話を読んで、石破が不勉強であることと、いわゆる「十五年戦争史観」支持派であることは理解できた。
追記
大東亜戦争の起点を幕末に求める史観は、当ブログのオリジナルではない。
文芸評論家の林房雄氏が提唱したもので、「東亜百年戦争史観」と呼ばれている。