本記事は、アップ済みの『明治の日朝関係史①』の続編。
ですから、①を未読の方は、先に①を読んでから本記事に進んでいただければと思います。
征韓論(明治6年)⇒江華島事件(明治8年)⇒日朝修好条規(明治9年)⇒漢城に日本公使館設置(明治13年)⇒壬午軍乱、済物浦条約(明治15年)⇒甲申事変(明治17年)⇒漢城条約、天津条約(明治18年)
以上、日朝関係史①で扱った内容の項目だけを並べている。
それでは、かつての一万円札の顔、福沢諭吉大先生から話を進めよう。
明治時代の世論形成に大きな影響力を発揮した福沢諭吉は、明治18年3月、自らが主宰する新聞『時事新報』にて、『脱亜論』という社説を発表した。
ネットで「福沢諭吉 脱亜論」あたりで検索すると、原文がヒットするので興味がある方はお試しあれ。
ごく簡単に福沢の『脱亜論』の骨子を説明すると、「日本は支那や朝鮮とはもう縁を切った方が良い。西洋の文明国と進退を共にすべきである。隣国だからといって、支那・朝鮮に遠慮することはない。西洋人が支那や朝鮮に接するのと同じやり方で二国に対処すべきだ」というもの。
要は、西欧列強が中国や朝鮮を獲物にするのなら、日本も朝鮮半島と大陸に進出しようではないか、との主張だ。
つまり、福沢の主張は一種の「征韓論」とみてよいだろう。
今風に言えば、福沢はインフルエンサーの側面も持つ学識者、しかも絶大な影響力を発揮していた。
その福沢大先生が、甲申事変(明治17年)後の明治18年3月に、この『脱亜論』を発表した事実は日本人の対朝鮮観・対中国観形成に大きく作用したであろう。
しかも、明治15年の壬午軍乱で日本人が殺害されて以来、「朝鮮を討つべし」の思いは国民の間で共有されていた。
そこへ、明治を代表する知識人福沢の口から、かつての「征韓論」と同じ趣旨の発言がなされたのだ。
明治18年以降の日朝関係を俯瞰するためには、このような史実や知識人の言論や当時の国民感情等をすべて考慮しながら論を進めていかなければならない。
*明治18年(1885年)11月⇒大阪事件
大阪事件とは、自由党の大井憲太郎らが自由民権運動と朝鮮の独立運動を結合させて、二国にまたがる民主主義革命を起こそうとした事件である。
大井と同士らは朝鮮に渡り、朝鮮の反体制派(独立党)と連携してクーデターをおこし政権を打倒して、朝鮮を清から独立させようとしていた。
朝鮮独立後には、民主的な諸改革を行い、日本国内の自由民権運動と連動させ日本の政治改革を進めようと計画したものだ。
この大胆な企てのために爆弾を製造したり、資金調達のため強盗なども行ったが、日本政府はその動きを察知して明治18年11月に関係者百数十名を一斉に逮捕した。
自由民権運動と聞くと、「言論による闘争」というイメージが強いようだが、一部には外国に乗り込んでクーデターを起こそうと狙う過激派もいたことは覚えておいて損はない。
また、日本政府ではなく、民間レベルで日本と朝鮮の反体制派が手を組んでいたという史実も興味深い。
日朝関係史を考える際に、朝鮮国内の親日派や反体制派と、それを支援する日本人が共同して様々な活動を見せた事実を忘れてはならない。
先述の『脱亜論』を発表した福沢諭吉自身も、日本に来た朝鮮人留学生たちを大切に扱い、指導・援助を惜しまなかった。
1884年(明治17年)の甲申事変を起こした独立党の金玉均(きんぎょくきん)も、福沢諭吉の薫陶を受けた朝鮮人の一人である。
福沢が『脱亜論』を執筆したのは、甲申事変の結果により朝鮮に対する日本の影響力が低下したことへの福沢の失望感と苛立ちが背景にあると推察する研究者もいる。
*1889年(明治22年)10月⇒朝鮮による防穀令
1889年から翌90年にかけて、朝鮮の地方官が大豆などの穀物の対日輸出を禁じた。
これを防穀令といい、日本は朝鮮に抗議してこれを廃止させたうえで、禁輸中の損害賠償を請求したため日朝間で外交問題に進展する。
*1893年(明治26年)⇒賠償金獲得
朝鮮との交渉が難航したため、日本は清の李鴻章(りこうしょう)に斡旋を依頼し、1893年(明治26年)に賠償金11万円を得た。
この防穀令事件では、交渉に当たった大石公使が朝鮮側のぬらりくらり作戦(?)に業を煮やし「このうえは、期限を切って、朝鮮政府の回答を督促するほかはない。これに応じなければ、仁川、釜山税関を占領することとして、両港に軍艦を派遣されたい」との電報を政府宛に発した場面もあった。
既述のように、朝鮮側の賠償金支払いが行われたのが1893年であるから、これは日清戦争(1894年8月勃発)の前年のことだ。
常連の皆さんの推察通り、この防穀令事件は日清戦争の原因のひとつである。
*今回はここまで
福沢の『脱亜論』、朝鮮の「防穀令」とその後の「賠償金」など、それほど認知度が高くはないトピックが今回の内容であった。
次回の第三弾は、甲午農民戦争(=東学の乱)から日清戦争へと歴史が大きく動いていく。