今回は、戦前の日朝関係を少しばかり振り返ってみようかなと、、、
では、タイトルにあるように「征韓論」から「漢城条約」「天津条約」までの経緯を概観していこう。
*明治6年(1873年)=征韓論が高まるも、西郷・江藤・板垣ら征韓派は敗北し、下野
*明治8年(1875年)=江華島事件
*明治9年(1876年)=日朝修好条規(江華条約)
*明治13年(1880年)=漢城に日本公使館設置
◎ 征韓論と明治6年の政変
大久保・木戸ら内治整備優先派と西郷・板垣ら征韓派の間で、鎖国状態の朝鮮との対応を巡り、議論が交わされた。
征韓派は朝鮮が開国を拒んだならば、武力行使も辞さない強硬策を主張したが、論争は大久保・木戸らの勝利となり、征韓派は下野する。
さらに、征韓論派の官僚や軍人も数百名が職を辞したが、これを「明治6年の政変」とか「征韓論政変」と呼ぶ。
◎江華島事件
さて、一旦は時期尚早と自重していた大久保らは、満を持してか、明治8年(1875年)に朝鮮に対して開国要求に出る。
日本の軍艦雲揚(うんよう)号が、朝鮮西岸海域を測量中に、江華島の砲台から砲撃を受け、雲揚号も艦砲射撃で反撃した「江華島事件」が、その契機となった。
◎日朝修好条規、日本公使館設置
明治政府は、朝鮮側の砲撃を問題視し、その責任を問う交渉のために朝鮮に開国を迫った。
翌、明治9年(1876年)に日朝は「日朝修好条規」を結び、朝鮮は開国する。
そして、明治13年(1880年)、明治政府は漢城(現在のソウル)に日本公使館を設置した。
*明治15年(1882年)=壬午(じんご)軍乱(壬午事変)、済物浦(さいもっぽ)条約
*明治17年(1884年)=甲申(こうしん)事変
*明治18年(1885年)=漢城条約、天津条約
◎壬午軍乱(壬午事変)
開国後、朝鮮政府は日本の協力を得て、開化政策を進めたが、財政出費がかさみ旧軍兵士への俸給が滞った。
これに不満を爆発させた兵士が反乱を起こし、閔氏一族(=当時の政権)の邸宅や官庁、さらには日本公使館を襲撃したのが、1882年の壬午軍乱である。
この反乱には朝鮮の民衆も参加し、日本公使館は焼き討ちされ、16名の日本人が殺害された。
この壬午事変は日本で大きく報道され、「出兵して朝鮮に報復せよ!」との世論が高まった。
なんの落ち度もない日本人が朝鮮の内政問題で虐殺された事実は、令和の日本の若者にも是非知ってほしい。
日本の左派メディアが言及したがらない史実であるから。
◎済物浦条約
さて、壬午軍乱の被害賠償(日本人遺族への見舞金など)や朝鮮人実行犯の逮捕・処罰等に関して、済物浦(さいもっぽ)条約が、日本と朝鮮の間で締結された。
この条約では、日本公使館の護衛として、漢城における日本軍駐留が認められた。
16名の国民を殺害された日本としては当然の権利であると同時に、朝鮮の宗主国をきどる清を牽制する意味合いもあっただろう。
◎甲申事変
1884年(明治17年)には、金玉均を中心とする独立党(親日の改革派)が日本公使館の援助のもとに、クーデターを起こしたが、これを甲申事変という。
1884年の清仏戦争を好機と見なして、金玉均らが決起した事件であり、このクーデター計画には日本政府の関与もあるとの指摘がある。
ただ、日本政府が一枚かんでいたとしても、何の不思議もない。
なぜなら、2年前の壬午軍乱で日本人16名が殺された恨みはあるし、済物浦条約で漢城の日本軍駐留が認められていたからだ。
また、日本の朝鮮内政干渉を支持する日本人も少なくはなかったし、そもそも壬午軍乱の時から「朝鮮を討つべし!」の声が国民から上がっていた。(朝鮮の内政問題には、日本の自由民権運動の指導者らも強い関心を持ち、様々な動きを見せるが、、、これは、日朝関係史➁にて)
このような史実や日本の国民感情などを勘案してはじめて、明治以降の日朝関係や日清・日露戦争の背景が見えてくる。
甲申事変に話を戻すと、残念ながら(?)金玉均の読みははずれ、清がすぐさま介入してくる。
袁世凱率いる清軍がクーデター部隊を駆逐し、独立党の金玉均らは日本に亡命した。
◎漢城条約、天津条約
この事変後、日本と李氏朝鮮は1885年(明治18年)に漢城条約を締結する。
朝鮮国王から日本への謝罪、日本人死傷者への補償金、日本公使館再建費用の負担等について定めた条約だ。
また、同年に日本と清との間では、甲申事変の事後処理として、天津において天津条約が結ばれた。
この条約で、日清両国は朝鮮から撤兵することや、今後朝鮮に出兵する際には、互いに事前通告すること等を定めた。
蛇足だが、「出兵前の相互事前通告」とは、通告すれば朝鮮に軍隊を派遣してもよいということだ。
◎今回はこのあたりで
日本の左翼やリベラルの大多数は、これらの事件や史実、当時の日本世論などを一切考慮しないで、日清戦争や日露戦争を語ったり、いきなり日韓併合(明治43年・1910年)を引き合いに出して、「日本が悪い」などと世迷言を言う。
ホント、不勉強な連中だ。
それでは、再度、征韓論から天津条約までの流れを再掲して、本記事を締めよう。
征韓論(明治6年・1873年)
江華島事件(明治8年・1875年)
日朝修好条規(明治9年・1876年)
漢城に日本公使館設置(明治13年・1880年)
壬午軍乱、済物浦条約(明治15年・1882年)
甲申事変(明治17年・1884年)
漢城条約、天津条約(明治18年・1885年)