明治の政治家は潔い。
権力欲が少ないのか、次の権力闘争に備えるためなのか、政争に敗れるとすぐに下野する。
ホント、正々堂々というか直球勝負というか、傍から見ていて、地位に恋々としない姿勢に好感が持てる。
令和の日本を見てみると、選挙に三回も負けても、グズグズ首相の座にとどまり、挙句の果てには「鼬の最後っ屁」とばかりに、愚にもつかない「80年所感」などを出して、自らの勉強不足を曝け出した政治家がいたっけ、、、
えっと、名前が出てこないが、、、、、あ、石破茂だ。
ちょっと、わざとらしかったかな、ハハハ。
その点、西郷隆盛や板垣退助、江藤新平たちは征韓論に敗れると、躊躇せずに明治新政府を後にする。
いわゆる「下野」だが、ここで豆知識を一つ。
下野組としては上記の三人や副島種臣、後藤象二郎などが有名だが、実は征韓論主唱の先駆けは木戸孝允(桂小五郎)である。
西郷らが政府をしりぞいたのが、明治6年(1871年)のこと。
一方、木戸はすでに明治元年(1868年)に、朝鮮を討ち国威を発揚すべきだとの意見を述べていた。
ただ、明治6年の時点では、木戸は大久保と共に、国内の整備が優先だとして征韓論に異を唱えた。
詳細に関しては、またの機会に。
さて、明治の政治家の潔さの話に戻る。
岩倉具視や大久保利通との政争に敗れた、征韓論派は新政府の要職を捨て、それぞれ帰郷した。
細かい事情は多々あるだろうが、一斉に下野したという事実は事実である。
江藤新平は、明治7年(1874年)には地元・佐賀の不平士族に担ぎ上げられて挙兵するも、政府軍に敗北し、斬首・梟首された。
世にいう「佐賀の乱」であるが、近年、「佐賀戦争」と捉えなおす動きもあるようだ。
反乱ではなく、自衛の戦いであるという含みがあるらしい。
西郷隆盛については、明治10年(1877年)に、、、、、、
このあたりの経緯は、当ブログがわざわざ書かなくても、詳しい方は星の数ほどいるだろう。
当時の権力闘争や反政府運動は、決裂すれば武力行使につながりやすいため、明治初期には内乱(内戦)や一揆が頻発した。
考えてみれば、江藤も西郷も士族であり、幕末の血なまぐさい修羅場をくぐり抜けた傑物である。
現代の我々とは、その感性・感覚・覚悟が違う。
別に、暴力を賛美しているわけではない、念のため。
それにしても、選挙(=民主主義における権力闘争)に何度も敗北しておきながら、のうのうと権力の座にあぐらをかいていた政治家が令和にはいたなあ、、、えっと、名前はなんだったか、、、、あ、石破茂か。
チョット、しつこかったかな。
さて、征韓論の敗者組には、武力ではなく、言論をもって権力闘争に臨む者もいた。
その代表格が板垣退助。
自由民権運動の指導者で、「国会を創った男」との異名を持ち、生涯に何度も命を狙われた。
征韓論では下野したが、明治31年(1898年)には日本初の政党内閣となる隈板内閣を組織し、自らは内務大臣となる。
板垣のように83歳の長寿を得たものもいれば、江藤や西郷のように下野した翌年もしくは数年後に命を落とした人物もいる。
しかし、自分の信念に従って、行動する生き様には令和の政治家にはない潔さというか美学のようなものを感じる。
学歴詐称問題で世間を騒がし続けている某市の女性市長は、何を思いながら、立場にしがみついているのだろう?
男性部下と複数回、ラブホテルにしけ込みながら不倫関係ではないと言い張る、どこぞの女性市長の感覚など理解の範疇を超えている。
この二人の悪あがきは見苦しい!
令和に生きる日本人の多くが、幕末や明治を今よりも「劣った」時代だと考えている。
しかし、あくまで仮想だが、もしあの当時の幕閣・政治家が石破や田久保や小川の振る舞いを目にしたら、どのような印象を受けるだろうか?
武士道や儒教の観点・価値観からすると、あの三人の開き直り・居座りはどう映るのだろうか。
あくまで仮定の話であるから、常連の皆さんの想像にお任せするしかなさそうだ。
ただ、当ブログの結論は「幕末・明治の政治家は潔い。令和のあの三人の悪あがきは見苦しい」である。
追記
現代の「不倫」は、江戸時代では「不義密通」と同じであろう。
周知の通り、不義密通は男女共に死罪であった。
また、確信はないが、令和の日本人にも儒教や武士道の倫理観・価値観がある程度、残存すると見なしてもよさそうだ。
われわれが、あの三人に嫌悪感を覚えるのは、事象・行為(選挙戦敗北、学歴詐称、不倫疑惑)そのものよりも、それを誤魔化す態度や言いつくろう行動に対してであろう。
要は、三人の悪あがきは儒教でいえば「誠」「信」「仁」などに反する行為にあたり、武士道からすれば「義」や「名誉」の道に背く振る舞いなのだ。
このあたりを掘り下げれば、また記事の一つや二つは書けそうだ。