大人気! 「日本史クイズ」第六弾! 応仁の乱から戦国の世へ!

常連の皆様の間で大人気の「日本史クイズ」シリーズ。
今回は、第六弾。

* 空欄を埋めてください。

応仁の乱の原因には大きく二つの事情が挙げられる。
一つは将軍の継承問題である。
八代将軍義政の正室である日野( 1 )にはなかなか男子が生まれなかった。
そのため、義政は自分の弟の義尋(ぎじん)を還俗させて、足利義視と改名させて次期将軍にしようとした。

ところが、( 1 )は突然、妊娠して、翌年男児・義尚を出産する。
義視には、細川( 2 )が、義尚には、山名( 3 )と、それぞれ有力な守護大名が後見人となり、両陣営が対立するようになった。

もう一つの火種は、斯波氏と( 4 )氏の両管領家の家督相続をめぐる内紛であった。
ついには、全国の武士が細川の( 5 )軍(=24カ国16万人)と山名の( 6 )軍(=20カ国11万人)に分かれて争い、( 7 )年に応仁の乱が始まった。
応仁の乱は( 8 )年間も続き、京都は戦場になり焼野原と化した。

と、問題文はここまで。
まずは、応仁の乱に関する問題です。
では、答え合わせをしましょう。

1 富子  2 勝元  3 宗全(または、持豊)  4 畠山  5 東  6 西  7 1467(または、応仁元年)  8 11

いかがでしたか。
続きまして、応仁の乱後の動きについてみていきましょう。

* 空欄を埋めてください。

応仁の乱後、下剋上の風潮が全国をおおい、諸国には実力で領域を支配する大名が次々にあらわれ、たがいに争いを続けた。
これを、( 1 )大名とよぶ。
このさきがけとなったのが、北条( 2 )である。
この北条( 2 )は、15世紀末に堀越公方を滅ぼして伊豆を奪うと、相模に進出して( 3 )を本拠地とした。

北条氏の伊豆進出で戦国の世がはじまろうとするころ、加賀では守護大名が、( 4 )宗の宗教組織にもとづいた( 5 )一揆によって倒された。
この一揆の基礎をつくったのは、僧侶の( 6 )である。
この宗派の僧や国人たちが、農民門徒をひきいて、加賀で一揆をおこし、1488年に守護であった( 7 )氏を打倒し、その後約100年間にわたって、合議にもとづく一国の支配をおこなったのである。

と、問題文はここまでです。
では、以下に正解を。

1 戦国  2 早雲  3 小田原  4 一向(または、浄土真)  5 一向  6 蓮如  7 富樫

北条早雲は、存命中は「伊勢宗瑞」でした。
鎌倉幕府執権の北条氏とは無関係らしいですね。
浄土真宗の中興の祖、蓮如さんは一休さんと同時代の人物で、二人は仲が良かったようです。
では、最後に◎✖形式クイズで締めくくりましょう。

*以下の文章の正誤を、◎か✖かで答えてください。

1 上杉謙信は守護大名から戦国大名へと成長した典型的な例である。
2 戦国大名の中には、領国支配のために「分国法」という基本法を定める者もいた。
3 室町中期の茶人で、茶道の基礎を築いた人物は武野紹鴎である。
4 東海一円に勢力を誇っていたのは、駿河守護から戦国大名へと成長した今川氏である。
5 守護を出自とする戦国大名には、九州の覇権をめぐって対立した大友氏や島津氏もいる。
6 浄土真宗の寺院や道場を中心に形成された都市を門前町という。
7 商工業発展のために、戦国大名は楽市令を出して座の特権を否定し、自由な商取引をおこなわせた。
8 応仁の乱後、京都では商工業者である町衆が自治的運営をおこなったが、この町衆の中心は日蓮宗徒の商人であった。
9 貿易の要港であった堺の商人は、大内氏と手を組んで日明貿易をおこない、富みさかえた。
10 戦国大名は家臣の知行地について、その年貢額を銭に換算した貫高で表示し、軍役賦役の基準とした。

ちょっと、難度が高いものもあったかもしれません。
メジャーな戦国大名の名前などは、簡単すぎて、常連の皆さんには物足りないでしょうから、あえて出題していません。
それでは、以下に答えを。

1 ✖ 長尾景虎(後の上杉謙信)は、守護であった上杉氏の守護代をつとめていた。
2 ◎
3 ✖ 茶道の基礎を築いたのは村田珠光であり、村田珠光(じゅこう)⇒武野紹鷗(じょうおう)⇒千利休の流れとなる。
4 ◎
5 ◎
6 ✖ 「寺内(じない)町」が正しい。門前町とは、寺社の門前市から発達した都市のこと。
7 ◎
8 ◎
9 ✖ 堺の商人は細川氏と手を結んだ。大内氏と組んだのは博多の商人である。
10 ◎ これを「貫高制」という。

いかがでしたか。
室町時代の仏教や文化にもクイズの題材になりそうなものが沢山あります。
今回は割愛しましたが、またの機会に取り上げたいと思います。