外交官の不手際のせいで「だまし討ち」と言われ続けて八十数年、、、

毎年、12月8日が来るたびに必ず頭をよぎることがある。

*なぜ、もっと手際よく作業ができなかったのか?
*キーを一文字ずつ探しながらタイプしていたなんて、今でも信じられない。
*そもそも、緊張感が無さすぎではないのか、あの当時の外交官として!

なんともやりきれなくて少し暗い気持ちになる。
しかし、開戦記念日であるから、すぐに大東亜戦争に従軍し生還した祖父のことを思い出し、気分は晴れやかに。

本題に入ろう。
昭和16年12月8日(米では7日)、日本海軍はハワイ・オアフ島の真珠湾に奇襲攻撃をかけた。
これが令和の今日まで、「だまし討ち!」とアメリカ人から日本が罵倒される原因となった。
そして、「リメンバー・パールハーバー」の合言葉を、多くのアメリカ人が今なお忘れてはいない。

なぜ、「だまし討ち」と非難されているのか?
事前通告(宣戦布告)なしで、のべ三百機を超える日本海軍航空隊が真珠湾に殺到したからだ。

なぜ、日本は事前通告をしなかったのか?
厳密に言うと、「しなかった」のではなく、事前通告が「一時間遅れた」のである。

なぜ、宣戦布告が真珠湾攻撃の一時間後になったしまったのか?
本記事タイトルにあるように、当時の外交官の「不手際」によるものだ。

歴史に「if」は無いことは、百も承知ながら、ついつい「たられば」を語りたくなる識者も多いようだ。
もし、事前通告が真珠湾攻撃の30分前に行われていたら、「だまし討ち」と糾弾されることもなく、その後の展開によっては講和成立も可能だったと推測する専門家もいる。

では、昭和16年12月当時、ワシントンの日本大使館がどんな「不手際」を犯したのかを見て行こう。

まず、日本政府は、ワシントン時間の12月7日午後1時までに宣戦布告の通知を行うつもりであった。
日本政府からワシントンの日本大使館に最後通告書の大部分を入電開始したのが、12月6日午後1時である。
(ただ、外務省からの入電に関しては、資料によって開始時刻や完了時刻が異なるので、当記事ではある書籍の記述に従っている)

ここで、戦前の外交機密文書の授受や取扱について簡単に補足説明させていただく。

⇒文書は送る前に、「暗号化」される。
⇒現代のメール送受信とは異なり、長文の入電にはかなりの時間がかかる。
⇒受け取る大使館側は、まず暗号を解読してから内容を確認し、タイプ打ちして文書として整える。
⇒機密文書は、雇ったタイピストには触らせず、大使館員が自ら清書を行う。

繰り返しになるが、ワシントン時間の12月6日午後1時から日本政府の暗号文書(全14部のうち13部)が大使館に届き始め、午後9時には入電完了した。
大使館電信課が入電した分から暗号解読に取り掛かるも、暗号解読機が1台しかなく、かなりの長文であるために作業が捗らなかった。

しかも、信じられないことに、6日の夕方には解読作業を中断して、ある書記官の送別会兼会食会を大使館員たちで行っている。
午後10時ごろに大使館に戻り、解読作業を再開して午後11時ごろにはほぼ解読完了したようだ。
それにしても、6日が土曜日であったとはいえ、あの日米関係が緊迫していた時期の文書を処理する途中に会食を入れるとは、緊張感の無さにもほどがある!

さて、暗号解読作業終了の次は、タイプ打ちをして文書として整える必要がある。
重要文書ゆえ、雇いのタイピストに任せず、大使館員が自らの手で行わなければならない。
ここで、さらに驚くべきことに、一等書記官の某氏はキーをひとつ探しては「パチ」、また次のキーを見つけては「パチ」と打っていく、いわゆる「雨だれ式」タイピングしかできなかったのだ。

ホント、冗談かよと言いたくなるが、これは関係者の証言によると事実らしい。
ブログ主でも、キーの配置は指が覚えているから、両手で入力しているというのに、、、
まあ、そういう時代だったと言うしかないのであろうか。

さて、12月7日午前3時頃から、最終・十四部の入電が始まり、暗号解読を開始すると「対米覚書を7日午後1時に米国務長官に野村大使より直接手交すべし」との内容が記されていた。

大使館はパニック状態に陥り、一等書記官だけでは到底間に合わないので、他の館員もタイプ打ち作業に加わった。
遅々として進まない状況を心配した日本大使館は、米のハル国務長官の秘書に「午後1時の約束を2時にしてほしい」と要望する。
野村大使らは午後2時を少し過ぎたころに国務省に到着し、しばらく待たされた後にハル長官にタイプ文書を手渡す。
しかし、時すでに遅しで、それは真珠湾攻撃の1時間後であった。

以来、日本人は「だまし討ち」の怒号をアメリカ人から浴びせられ続けている、令和の時代まで。
日本政府(外務省)の入電方法にも問題があると示唆する識者もいるが、多くの専門家が昭和16年12月の日米関係を思えば、ワシントンの日本大使館員には緊張感が欠けていたと指摘する。

当時の大使館員に対して、大変厳しい言葉を浴びせている識者もいる。
保守の論客として有名であった故渡部昇一氏(上智大学名誉教授)は、著書の中で以下のように述べている。

⇒「この痛恨のミスは徹底的に日本非難の材料に使われ 『ずるい日本人』というイメージが世界中にばらまかれてしまったのである。当時のアメリカにいた責任あるキャリアの外交官たちは、ペンシルバニア通りに並んで切腹するべきであった。
そうしていたら、世界中のマスコミが報道して、奇襲になった理由も理解され、『ずるい日本人』というイメージも払拭できていたはずである。しかし、もちろん彼らはそんなことはしなかった」

もし、在ワシントンの日本大使館員たちが、実際に切腹していたら、、、、
確かに、「ハラキリ」の現物を目にしたら、アメリカ人は度肝を抜かれていたではあろうが、、、

冒頭でも書いたが、12月8日は毎年、開戦直前の駐米日本大使館員の職務怠慢を思い出しては、少々憂うつな気分になる。
あの人たちの不手際のせいで、八十数年後の日本人も「だまし討ち」「ずるい日本人」の汚名を着せられているのだ。
まあ、開戦記念日には祖父のことを思い出すから、すぐに元気が湧いてきて溌溂とした気分になるのが幸い。

今回の内容は大東亜戦争に関心を持つ人々の間では、よく知られた史実ではあるものの、あえて記事にした。
当時のアメリカ外交の裏側も、また機会があれば紹介しようと思う。