仏像の胸を開くと、そこにも「仏」さまが! 京都・萬福寺「羅怙羅尊者像 らごらそんじゃぞう」は異色!

現在、京都国立博物館にて「日本、美のるつぼ」という特別展が開催されている。
後輩の酒井が訪れて、その内容を少し紹介してくれた。

数々の展示物の中に、ひときわ目を引く仏像がある。
それが、タイトル中の「羅怙羅尊者像」だ。

羅怙羅尊者とは?
そう、お釈迦様の実の息子である。

では、この「羅怙羅 らごら」なる言葉は何を表すのか?
ずばり、「悪魔」のことだ。

古代インドでは、日食や月食は悪魔が引き起こすものだとされ、その悪魔を羅怙羅と呼んだ。
要は、お釈迦様は、我が息子に「悪魔」と命名したことになる。

自分が覚るための修行に、息子の存在が障害になると考えて、羅怙羅と名付けたと言われている。
釈迦にとっては、一番大事なことは自らの出家学道であり、子に対する愛情は二の次であった。
真理の追究のためには、家も家族も捨てた釈迦の生き方は、ある意味で超利己的である。

以上のようなことを、日本の仏教界はあまり語ろうとしない。
自分のエゴを最優先して、釈迦が身内を顧みなかった事実は、隠したいのかもしれない。

さて、話を「羅怙羅尊者像」に戻そう。
この仏像は、実に異形だ。
羅怙羅尊者が両手で、自分の胸部を開いて、内部を見せている。

その胸内には、仏の頭部が鎮座ましましているのだ。
ぜひ、「京都萬福寺 羅怙羅尊者像」でネット検索してほしい。
多くの人に、この異色の仏像を知ってもらいたい。

羅怙羅像の胸部に、仏の顔が見えるのは、「人は誰でも仏になれる、自分の中に仏はいるのだ」との考えを示しているためだという。

この萬福寺に伝わる羅怙羅像を造ったのは、范道生(はんどうせい)という仏師だ。
1660年、支那から渡日した人物で、萬福寺の隠元禅師に招かれ、仏像製作にたずさわる。

萬福寺滞在は、約一年だったらしいが、多くの僧と交流し、彫刻の他にも絵画作品も残している。
同時期の京都仏師にもかなりの影響を与えたらしい。

この萬福寺は、京都府宇治市にある黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山だ。
黄檗宗は、臨済宗、曹洞宗と並ぶ、日本三禅宗の一つとされる。

では、萬福寺HPより少し引用しよう。

⇒「1661年に中国僧「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。その後幕府の政策等により、宗派を黄檗宗(おうばくしゅう)と改称し現在に至ります。日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。
萬福寺の建造物は、中国明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿のままを今日に伝える寺院は日本では他に例が無く、代表的禅宗伽藍建築群として、天王殿・大雄宝殿・法堂3棟が国宝、他主要建物20棟・回廊・額などが国の重要文化財にそれぞれ指定されています」

黄檗宗開祖である隠元隆琦(1592~1673年)は、江戸時代初期の1654年に長崎に来港している。
1658年に、四代将軍・徳川家綱と会見した。
その結果、1660年に山城国宇治郡に寺地を賜り、翌61年に黄檗山萬福寺を開創する。

この「黄檗山萬福寺」とは、隠元が得度した母国の寺と同名である。
「旧を忘れない」という意味を込めてのものだという。

黄檗宗と隠元禅師に関しては、また改めて、紹介する記事を作成したい。
最後に、隠元禅師とインゲン豆について少々。

江戸時代に、隠元禅師が日本にもたらしたから、「隠元豆」との名前が付いたと言われている。
ただ、これには異説があるようだ。

隠元禅師が持ち込んだのは、藤豆(フジマメ)だとする説もあるらしい。
そのせいかどうかは不明だが、関西ではフジマメを「インゲンマメ」と呼ぶようだ。
まあ、真相はよくわからないみたいだが、、、

とにかく、美味しい豆であることは間違いなく、「金時豆」や「うずら豆」、「虎豆」とか「大福豆」もインゲンマメの銘柄・種類である。
煮てよし、甘納豆にしてもよし、餡にしてよし、、、、

異形の仏像の紹介から、いつの間にやら、「インゲンマメは美味い」の話に変わってしまった。
毎度の事でございます、ハハハ。
というわけで、そろそろ、本記事は幕引きとしよう。