毎年、3月の中旬ごろになると母親から車での送迎を打診される。
そう、春のお彼岸の墓参りのためだ。
今年は、妹にお願いした。
一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など)の側から見ると、日本人の多くは無宗教だと映るのであろう。
また、我々の中にも「日本人は無宗教だ」と発言するものもいる。
さて、昭和生まれの婆様である、私の母親の宗教(?)がらみの行動を見ていくと、、、
*毎日、仏壇に水や少量のご飯をお供えしている
*先祖の命日には仏壇にお菓子や果物などをお供えしている
*彼岸(春・秋)とお盆(8月)には必ず、墓参を欠かさない
*時折、寺から配布されたお経(ルビ付き)を仏壇の前で読誦しているらしい
上記四つの行為はすべて、仏壇か墓前が舞台となっている。
つまり、我が母の宗教活動(?)の中心にあるのは先祖供養である。
従って、先祖供養を宗教行為とみなすのであれば、うちの母は無宗教ではない。
いうならば、「先祖供養」教の熱心な信者といえよう。
もちろん、実家には神棚もあるし、神社のたぐいも母親は嫌いではない。
昨年、12月に私が宇佐八幡に参拝することを察知すると、「厄除けのお札を買ってきておくれ」と頼んできた。
そのお札を渡しながら「宇佐八幡ってどんな神社が知っているのか」と尋ねたところ、「そんなの知らん」と堂々と胸を張った母である。
そこで「全国に何万とある八幡神社の総元締めが宇佐八幡だよ」と伝えたら、「ふ~ん、そう」と素っ気ない返事。
御利益は欲しいが、神社の由来とかには興味がないようだ。
結局のところ、我が母親の場合は仏式で先祖供養を行い、神社には現世利益を求めるパターン。
詳しい研究は専門家にまかせるとして、当ブログの印象では年配の日本人の多くはうちの母と似たりよったりではないかと感じる。
さて、一神教側からすれば、先祖供養とか現世利益の追求などの行為は「宗教」と定義しにくいのであろう。
一般的には、彼らのいう「宗教」とは、「唯一絶対神への信仰・聖典・教義」のワンセットが揃ったものだからだ。
ジャン=ノエル・ロベールという研究者は、著書『仏教の歴史』の中で以下のように述べている。
⇒「多くの欧米人、ことに仏教研究に惹かれた人たちは、仏教を「宗教」と呼ぶことを躊躇する。彼らはその代わりに「哲学」として扱うことを選ぶ。この言葉が選ばれる最大の理由は、仏教は一神教とは違って、天地および人間をはじめとするそこに住むものたちを創り出した永遠なる一つの「神」を認めないからである」
以上の引用部はロベール氏以外の、一般的な西欧人の感覚であり、氏自身は仏教のことを「至高神なしの一神教」と呼んでいる。
興味が湧いた方は、ロベール氏の『仏教の歴史』(講談社選書メチエ)を手に取ってみてはいかがか。
とどのつまりは、宗教の定義次第であるから、ユダヤ教徒やキリスト教徒から「日本人は無宗教だ」と指摘されても、「べつに、無宗教と言いたいなら、言えば」と答えるのもアリだろう。
ブログ主は宗教には興味があるので、キリスト教やユダヤ教に関して些少の知識は持ち合わせてはいるが、唯一神を信仰する気持ちなどサラサラない。
仏教には、さらに関心が高いが、特定の宗派にハマっているわけでもない。
勝手に、今東光大僧正の弟子だと自認しているだけだ。
西欧人や異文化からどのように見えようとも、「先祖供養」が根幹にある平均的日本人の宗教的(?)活動には安心・安全な面がある。
それは、一神教が往々にして持つ「狂信性」から解放されていることだ。
狂信性とは、換言すると「排他性・独善性・攻撃性」である。
うちの母が自宅の仏壇の前で手を合わせる時、思うのは先祖の成仏であって、この行為の狂信度は0%である。
墓前で心静かにお参りする人の胸中には、排他性も独善性も攻撃性も一切存在しない。
そう、理信的な先祖供養教は、世界一平和な宗教である。
わざわざ、「理信的な」と限定したのには理由がある。
多数の日本人が自然に抱く先祖を敬う心に付け込んで、金を巻き上げるために「このままでは先祖の霊にたたられる」などの妄言を善男善女に吹き込む連中が存在するからだ。
このような悪党に騙されると、純粋で罪のない先祖供養が狂信の火種へと変化していく。
高価な壺や印鑑を購入したり、貯蓄・資産を教団へと寄付したり、、、、
邪教やカルトは常にカモを狩るために手ぐすねを引いている。
宗教は恐ろしい。
特に、一神教は狂信化する傾向が強い。
ユダヤ教徒やイスラム教徒から「日本人って無神論者なんだ」と揶揄されるぐらいで丁度いいのかもしれない。
どうも、一神教側は自分たちの宗教観が唯一無二のものだと思い上がっているようだ、当ブログの勘違いでなければ。
1995年3月20日、日本史上最悪のテロ「地下鉄サリン事件」をオウム真理教が引き起こした。
オウム真理教の教義(?)がどのようなものであれ、教団が最終的にテロ組織化したことは明白な事実。
つくづく、宗教は怖ろしい。
令和8年の春のお彼岸は、3月17日から23日まで。
3月15日あたりから、母が「何日にお墓参りをしようかね」と騒ぎ出すので、こちらも宗教について考えることになる。
というのが、今回の記事の背景。
正月には神社に参拝し、お彼岸やお盆には墓前で手を合わせる。
クリスマスの宗教性は完全に脱色して、ただのイベントとして楽しむ。
それでいいんじゃないの。
平均的な日本人の緩い宗教意識(?)と理性的な先祖供養の概念は周囲に害を与えない。
一神教の信者たちには「日本人って、神を信じないんですか。ヘンですね」とでも言わせておけばよい。
などと感じながら、本記事はここまでとしたい。