かわむら よしひろ氏の『神道はGitだった』は興味深い記事でいろいろと考えさせられた!

何をいまさらと言われそうだが、「note」というメディアプラットフォームがある。
文章や画像、音声、動画を投稿・共有できる。
最近、このnote上で、「かわむら よしひろ」さんというクリエイターの記事を興味深く読んだ。

それが『神道はGitだった ー 分散型思想としての日本文化』というタイトルのエッセイ。
かわむら氏は某IT会社に勤務している方で、ITオンチのブログ主の対極に位置する。

さて、かわむら氏の記事の内容を少しだけ紹介すると、神道とGit(=ソフトウェア開発で使われるバージョン管理システム)には不思議な共通点があるというもの。

氏は神道の特徴として、「正典がない」「地域ごとに神社や解釈がある」「神話が重層的に積み重なる」「神仏習合のように統合が起きる」などの点を挙げている。
氏の解説によれば、Gitにも「中央の絶対的な真理がない」「分岐がある」「分派がある」「統合がある」などの性質があるらしい。(IT弱者の当ブログには「らしい」としか書けないのが残念だ)

そこから、かわむら氏は日本文化を分散型文明の中に位置づけているようだ。
この辺は、慎重な検討が必要だと思うが、興味深い考察であることは確かだ。
さて、かわむら氏の記事に目を通して、感じたことを以下に少し並べてみたい。

神道には教義や経典が存在しないとよく指摘される。
さらには、開祖なる人物も見当たらない。
このようなことから、神道は宗教ではないと考える人々も多い。

以上の様な主張の元にあるのは、西欧的な視点だと説明するのが一般的のようだ。
確かに、キリスト教には開祖がいる。
しかし、古代ギリシャは多くの神々を崇拝する多神教であり、その宗教世界には開祖などいない。
キリスト教が国教化する前の、ローマ帝国はギリシャ文化に影響を受けており、多神教である。

当然、古代ギリシャや古代ローマの神々の世界にも教義や経典は見当たらない。
すると、「西欧VS日本」というよりは「キリスト教VS非キリスト教」の図式のほうが正確なのか。
いや、イスラム教も「開祖あり、経典あり」の宗教だから、「一神教VS多神教」の対比のほうが適切なのか。
とまあ、とりとめもない疑問が浮かんでくる。

かわむら氏は、神道には教義がないという。
これは概ね正しいと思うが、多少の例外もありそうだ。
伊勢神道や唯一神道、垂加神道などには独自の神道理論(≒教義)がある。
天台の山王一実神道などは、徳川家康を神格化するために整えられた思想だ。

かわむら氏は、神仏習合のような統合がおきることを神道の特徴として挙げている。
しかし、習合・融合・統合というものは、神道に限ったものではないだろう。
密教の本質は、仏教とヒンズー教の習合であるし、カトリックはその長い歴史のなかで、世界各地の伝統文化、土俗信仰などと習合してきたはずだ。

ただ、キリスト教関係者は「習合」という用語には難色を示して、「土着化」とか「文化受容」という表現を好むのかもしれない。
日本の隠れキリシタンが聖母マリアを観音菩薩に見立てて「マリア観音」を生み出したのは、習合なのか、土着化なのか。
当ブログが思うに、日本文化の持つ、外来のものを消化・吸収し、日本流にアレンジする力、勝手に命名すると「Japanize=日本化する」能力の所産であろう。

今回、かわむら氏の記事を読むことで、様々なことを連想し、気の向くままにアレコレ書いてみた。
ただ、ITオンチの悲しさで、かわむら氏の「神道×Gitのような文明モデルが技術の世界で再発見されているとも言える。もしそうだとすれば、神道は単なる古い宗教ではない」という指摘は今一つ、ピンと来ないのだ。

と、ここまで綴ってきたものを読み返してみると、脳内の感想や断片的な知識を単に並べただけのような、、、
まとまった内容には程遠いように感じる。
試作品というか、未完成品もしくは不良品を常連の皆さんの前に差し出してしまったようだ。
こんな言い訳をすると「いつもの記事も大したことないぞ!」と磯貝老師や岡谷修行僧からツッコミが入る可能性大。

お後がよろしいようで。