「大和朝廷」「大化の改新」「和同開珎」について ~ 最近の日本史教科書から

現行の教科書では、「大和朝廷」という用語は避けられているようだ。
昭和世代が習った「大化の改新」も、今の学校では違う教え方をしているという。
また、日本史上で初の貨幣は、現段階では「和同開珎」ではないらしい。

では、「最近の日本史教科書」シリーズの第二弾。
まずは、「大和朝廷」の今昔について。

◎大和朝廷⇒ヤマト政権・ヤマト王権

ブログ主やノーちゃんが高校で教わった用語は「大和朝廷」であった。
それが、現在では、4世紀から7世紀の中央政府を「ヤマト政権」とか「ヤマト王権」と表記することが多い。
その理由を、某出版社の日本史教科書では以下のように説明する。

⇒国名としての「大和」の表記が8世紀後半の養老令施行後のことであること
⇒初期においては、大和国の全域を治めていたわけではないこと
⇒初期の形態が大王家を中心とする政治連合に過ぎなかったこと
⇒後年の天皇が百官を従えて政治を行う「朝廷」の実態とは異なること

さて、教科書から離れて、明治天皇の玄孫である竹田恒泰氏の著書から関連内容を正確に引用する。

⇒「纏向(まきむく)遺跡のある奈良盆地の東南地方は古くは大和(やまと)と呼ばれていた。纏向遺跡を本拠とするヤマト王権は、まもなく統一王朝となる大和朝廷の前身の王権である。ヤマト王権の大王は後に「天皇」と呼ばれるようになり、現在の天皇陛下は、この時代の前方後円墳に埋葬された大王の男系の子孫に当たる」

竹田氏は、時代が下がった頃の「大和朝廷」と初期の「ヤマト王権」を区別しながら両方の用語を使用している。

◎大化の改新について

*昭和の教科書の記述
⇒「大化の改新」=645年に中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我蝦夷・入鹿を倒したこと

*現在の教科書では
⇒中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿打倒した政変そのものは「乙巳(いっし)の変」という名称になっている。

そして、蘇我氏を排除した後、初めて「大化」という年号を定めて様々な改革を行った。
公地公民制の導入や中央と地方の行政区画と定めること、さらには戸籍や計帳をつくり班田収受を行うなどの政策である。
これら一連の改革をあらわす概念として「大化の改新」の用語を使用するのが、現在の歴史学の考え方だという。

蛇足だが、再確認すると
⇒「乙巳の変」=蘇我蝦夷・入鹿を殺害した政変(645年)
⇒「大化の改新」=乙巳の変以降に、行われた諸改革(646年~)をあらわす概念

まあ、数十年も経つといろいろあるようで、、、、

◎日本最古の貨幣は「和同開珎」から「富本銭」へ

日本最古の貨幣は、708年に鋳造された「和同開珎 わどうかいちん」だと習った。
ん、待てよ、当時教わった読み方は「わどうかいほう」だったかも。

それが、最近の教科書では、「富本銭 ふほんせん」という聞きなれない用語が登場。
最近の発掘調査の成果らしい。

⇒飛鳥池遺跡の発掘調査により、多数の富本銭と鋳型(いがた)が出土した。
この遺跡内の工房で鋳造されたことが確認され、『日本書紀』天武12(683)年の記述にある銅銭の可能性が高い。
従って、708年鋳造の和同開珎よりも、富本銭の方が古いことがわかった。

ということで、現段階では、日本最古の貨幣は富本銭であると教科書には記載されている。
素人が知らないうちに、日本史研究は進んでいるようだ。

今回の日本史ネタはこの程度にしておこう。
また、近々、第三弾を準備したい。